自死で逝った息子に失礼のないように生きたい

20090203205323[1]

  死にたいという言葉を聞いたり見たりすると
    心臓がバクバクする
  遺族にはとてもキツイ言葉
    
  息子の死後 精神薬を飲んでいた私は
     息子の後を追いたいと 二度試みた
  死ねない自分がいた
    息子は一度で逝った
    2度試しても死ねないのに、死ぬとか死にたいという言葉を言うのは
  息子に失礼だと思ったから
   2度といわないことにした

   そして  生きるしかできないなら
     これまでの生き方を改め
自死の問題に取り組んで生きようと思った

   どんなことを言われようが 息子が残した自死という事に生きることの全てをかけようと・・・
     怖いものはない
       批判もたくさん言われてきたし今もある
 でも私は息子からの・・・
    他の遺族からの・・・亡き人たちからのメッセージを聞き
伝えて行くと決めている

愛する家族を失ったからこその気づき
     たくさんの遺族の声を聞き その声の中にある亡き人の声を聞き
      自死の予防や防止・・遺族支援・・・を生業としている人や
  ビジネスにしている人・・そして真面目に取り組んでいる人も含めて
     自死に一番近い遺族の声を届け 
対策や支援にいかして
   自死を減らしてほしいと願っている
 
  ビジネスにしている人たちは
 程よく減り 程よく増えてほしい
   ゼロになったら困る
 
支援が仕事の人たちも減っては困る
  苦しい人たちが存在しないと支援ができなくなるのですから・・

   全員が幸せだと困る人達もいる・・・残念です

     遺族として 私は自死がゼロになってほしい
   そう思って活動をしている

   遺族の会も必要としない社会であってほしい

     そのためには

    やるべきことがたくさんありすぎて・・・
      
ひとつひとつひとつ・・・一つずつ・・

     精神医療の腐敗はひどい
    生きたい!元気になりたい!幸せになりたい!と
     医療を信じ 
    悪化し 薬に追い込まれて自死した人はものすごく多い

    最後の砦であるべき医療が 役に立っていない
       
    精神薬の支配は国を亡ぼす

      苦しみを死にたいという言葉で表現する人が多い
   死ぬほどの苦しみとか
 死んだほうがマシ・・とか

   本当に死んだほうがマシと思っているのか・・・は?

    息子が自死で逝ってから 
      死にたいとか死にたい気持ちとか
    自殺願望とか自殺志願とか
 悲しみのケアとか
     癒しとか
  深く考えてしまうようになった

    悲しみを癒すとかの言葉にはイラっとする
 自死を貧困と決めつけて いる人たちにも ムッとする

   理不尽な社会
  無知な人たち
私も無知の極みですが・・・

    私は自死した息子に失礼をしないように生きようと思っている

何やってるんだよ・・・といわれないように

    息子への償いの一つとして
死にたいという言葉は決して言わないと決めている

悲しみの時空の中で生きていくこと



 我が家のベランダから見えた虹

二重にかかっていました

   息子が逝った11月が近くなると仙台では頻繁に虹がでます

      虹は悲しい思い出
   息子とのたくさんの思い出は宝物だけど 
息子が逝った今は悲しみ色の宝物

     全てが悲しみの色で染まっている

美味しいものを美味しいと食べられるようになった
   でも
  息子が生きていたような美味しさにはならない

 胸に引っかかるものがある
 重たいもの・・・・空虚感・・・
    
  人間が作った言葉では人間の複雑な感情は表せない

   伝えられない

      自分の心は 誰にもわかりはしない

伝えられないのだから  わかるはずがない

   言葉は薄く浅い
       息子を自死で亡くしたこの気持ち・・・
          心の表現は表面だけなら 伝えられるけど
宇宙のように無限大に深く広いこの悲しみの心は
     自分にもわかりきれない

  簡単な言葉で表現はできるが真実ではない

真実の一部でしかない

    だから『心のケア」「悲しみのケア」
       「遺族の悲しみとは」なんて 
遺族でもない人が
 遺族の心を知りたい人へ講義をしているのを見ると
 吐き気がする

   あの人たちが  知っている遺族の悲しみは
  ほんの一部 
遺族の悲しみが 大宇宙だとしたら
    銀河系の端にある太陽の周りをまわっている地球の
   そのまた一部の日本
そのくらいの範囲での悲しみへの理解です

    愛する人を亡くしてみないとわかりません 絶対に・・・

   岡先生のエッセイにありますが
       魚が空を飛べないように 事実・現実なのです

   今月は命日
  12年になります

     早いような遅いような…12年
       活動も11年と半年

 24時間365日 自死の問題だけ考え向き合い生きている
      自死の問題に特化した活動

月をみてもかなしい
   雲も 青い空も
      何もかもが悲しみ色で染まってしまった

   その悲しみの空間で生きてきた

    私の時間はすべてが悲しい

    悲しい私の空間は  楽しく幸せな人たちと共存している

    悲しみのない人には 私の空間は見えない

   見えてもほんの少しだけ

     私は幸せで楽しい人たちの空間を知っている

なぜなら 私もその空間にどっぷりとつかっていたときがあったから

    その時には 悲しみ色に染まった世界があるとは想像もしなかった

    虹がきれい  と 思える人は 
 虹色が悲しみ色に見えない幸せな人

     二度とそんな世界に住めないわたし

    幸せ色の世界しか知らない人は
        幸せなまんまで生きてください

   悲しい  仲間を増やそうとは思っていませんから


 増やさないように 活動しています


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誰も自死に追い込まれることのない社会の実現を目指す

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自殺総合対策大綱

~誰もが自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指して~

多くは追い込まれた末の死である

   と大綱に掲げられている

しかし 今も  ほとんどの人たちは
   自死は個人の自由意志という概念をもっている

   死にたくて死んだのだ・・・とおもっている

      その一つ
「死にたい気持ちに寄り添って」
 「死にたい人たち」
    死にたい人という表現をする
      
「死にたい人」ではないのです

  何にも苦しみもなく、悩みもなく、幸せなのに
       「死にたい」人がいたら 精神的な病だと思う

何かがあるから「死」を考える
     
  人間の本能は死にたくない・・・が最も強い

     死にたくないのが人間

  悩みもなく幸せで苦しみもなく幸せな人が
   死にたいなら 人間を超えた特殊な人

    動物はみな死にたくない
   人間も動物  生き物  

生き物はみな死にたくない
   
     死にたい人が死ぬというなら
  自死した人たちは 人間ではないとでもいうのか

    特殊な人間とでもいうのか

 特殊な人間が3万人もいるのだろうか

     本来の人間としての精神本能を考えたら

        死にたい人なんていない

    なぜ   死にたい人・・・という表現をするのか

 それは
   人はすぐ死んだほうがマシ
   死ぬほど苦しい  死ぬほど痛い
      痛みや苦しみを「死」という言葉で普通に表現する人が多いから

    死んだほうがマシなら なんですぐ死なないのか
      マシな方を選ぶはず
死は生よりもマシではないから 生きている

   死にたくないから病院に行く
     死にたくないから薬を呑む

  死にたくないから精神科に行き  自死
  
     刑罰の最も重いのが死刑
  なぜ
    死は人間が最も恐れるものだから

 生きていることが死よりも
    恐れるものなら 
  人間は滅びている

   生を受けた途端 全員死ぬから

   死にたい人たちが自死するのではない

    死にたい人はいない

何にもなく幸せなら

     いつまでも生きていたいはず

   死は恐怖
 だから
不老不死を望む権力者もいた

   人間の欲望のトップは 不老不死

    なのに
なぜ自死

  死の恐怖を超え
  死の苦しみを超える 苦しみが社会にあったから

   死の恐怖心を超える 苦しみは誰が作ったもの
  それは
   人間   社会は人間が作ったもの

    人が人を追い込む社会

   苦しみや悩みがあっても
  ほんの少しの幸せがあれば死なない

  一瞬も楽しくないこの世での時間が永遠に続くように見えたら
 終わりたい
  と思うかもしれない

   楽しいことを思い出させないほどの苦しみを
  生きている私たちは知らない

     死んだ人にしか 苦しみはわからない

生きている人は  想像するしかない

でも
死にたくない・・生きていたい・・と

    最後まで苦しみ悲しみ悩んだ・・・結果だという事はわかる

だからこそ
 今なら  助けられる・・と思う

 その助けられる・・という思いを 集めたら
     予防も防止もできる・・・

どうしたら 救えたのか・・・

 なぜ  偉い人たちは 遺族から
   後悔と懺悔と悲しみと苦しみの中から得た知識を
       学ぼうとしないのだろう

ホントは  自死をゼロにしたくないのかな・・・

       

眠れない夜に 思うこと

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普段の生活の中では悲しみを表面に出さずに生きている

 ごまかし だましだまし 生きている

    それが

   悲しみなんて他人事~
     勉強しないと悲しみなんて理解できない人たち
       が
   偉そうに 悲しみについて語ったり
  遺族について説明したり
講演したり ネットに書き込んだりしているのを見てしまうと

  身体の奥から 悲しみが噴き出してくるのを感じる

    悲しみという真っ赤な血が  
               痛みと共にながれて くる

 フツフツと 怒りが湧く
    ケアとか支援とか言っている人たちに

  私の悲しみのケアが  
幸せで悲しみなんて勉強しなければ知らない人に
   できるわけがない

 そもそも グリーフのケアなんて 存在しない

  悲しみは愛しさと共に

   息子への愛が 私の悲しみ

   息子への愛を 他人がどうやってケアするのか
        親子の愛に 他人が入り込むなんて

     大阪ボランティ協会の出版の本に
  尊敬する上智大の岡先生のエッセイがある
「知らされない愛について」

その最初のページに
 大阪ボランティア協会の人が書いた
発刊にあたって
 という文書がある

やさしく想いやるのある文

 『心はどこにあるのだろう」
・・・・・・
・・・・・・・  ・・・・・

心はどこにあるのだろう
「心は;間;にあるんだ」
 花を見て美しいと思う心は
   花と私たちの間に起こる
   理不尽な出来事に遭遇してその事実を前にした自分に
  怒りの気持ちが沸き上がる、そういうものなのです。・・
・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ********
悲しいという心は
   息子と私の間にあるもの
悲しいという心は 息子を愛しているから

   戦争でたくさんの人が亡くなっても
      事故でも・・・
 自分が愛する人でないから
    息子を亡くした悲しみにはならない

  愛がそれぞれ違うように
  悲しみもまたそれぞれ違う

    そんな 悲しみを

     私の深い悲しみをケアなんて  
   笑い話です

      しかも 悲しみのケアは疲れます
  とか
   悲しみのケアをすることは 自分が豊かになれます
 とか
    悲しみのケアは喜びです

とか
  悲しみのケアは 人生の幸せです
  なんて
       発言されると

     いや~~~な 人間になってしまいます

    あなたの愛する人が 亡くなっても

      グリーフケアは幸せだと言えるのか
        喜びだといえるのか・・・と思ってしまうのです


   仙台市のいじめ自死の調査委員会の委員の選考が進まず
       教育局の対応が のらりくらり
          やる気ゼロに態度

  3人の中学生が亡くなっても
      全くやる気のない大人たち

      そんな 暖簾に腕押しの 
  煮え切らない  嘘ばかりの対応に
      心が悲鳴を上げる状態になっているのに

なんとかグリーフケア研究会の代表が
    神経を逆なでするような発言

      ナラティブスピリチュアルケア なんて 意味不明なセミナーを開催

   厚労省と何とかリンクが 理解不可能な自死の予防というトップセミナーを開催予定

      なんとか心のセンターは
子どもの心のケアシンポジウムを オーストラリアと韓国から講師を呼び開催

    ここは日本 しかも東北

 こんなことばっかり

    明日は13日のシンポジウムの資料の印刷

    知らなければ
        遺族がどのように思われているのか 
   支援はどうなっているのか
   知らなければ・・いや・・知ったとしても

      許せない・・・という気持ちにならなければ

       むすこへ愛と悲しみだけで 暮らしていたのかもしれない

    今月は 仙台市の自死の対策会議もある

  闘いです  会議は闘いです

   虚しくなるとわかっての戦いです

   お兄ちゃん  カァチャン  頑張るからね

   一緒にいるよね・・いつも

頑張ります

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 9月はメチャクチャ忙しかった

 10月も・・・

   明日はいじめ問題で市会議員と会う

   4日は東京
         13日のシンポジウムの会場の下見と
    シンポジウムのチラシのポスティング

        そして 5時に上智大学へ

       5日は藍色のこころサロン

         7日は川崎市  8日は石巻市

  その間に  電話相談・・
       資料の作成
     
   仙台市の会議
         円卓会議

  県の会議も近いうちに・・
  角田市も・・・

       12月の講演の準備
          ありがたいことですが 12月は3回の講演がある

        ワンストップ事業・・司法書士会・・仙台
    
   徳島市にも・・自死への差別問題・・・

      学校でもお話をさせてもらえることになった

       茨城・・・

    8月には水戸・・さざれの集いで講演

        講演や例会・シンポジウムやフォーラムを1年に20回ほど開催する
            司会や進行役・挨拶だけがほとんど

          自死という問題を通して  社会の理不尽さや矛盾を広く感じてきた

             ハッキリと 真実を指摘する私の講演は
                        苦手と思う人も多いような気がする

    でも 私は  ウソを言うつもりはない
    おべんちゃらを言うつもりもさらさらない

        詭弁は 嫌い
              息子が生きていたら  適当に愛想のいい人で生きていた私

    いくらでもお世辞は言えるし 合わせられる
          でも
        息子が逝き 人生は変化した

           お世辞で パフォーマンスで  きれいごとで
     自死は減らない 
      遺族の問題も解決しない

          本気で減らしたい
       本気で生きていてほしいと願っている
             本気で活動をしている

     いのちを削る想いを籠めて

     人が人を追い込まない社会に・・・

 ずるがしこい人が真面目な人を追い込まない社会に・・・

  やさしい人がやさしいままで 笑顔で  生きられる社会を目指して・・

     明日も頑張ります