悲しみは悲しむ社会に・・・

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 野田先生が2011年5月に産経新聞に寄せた文章の中から・・・


   あなたは夫か妻を亡くし、子ども2人が行方不明の人に向かって
    「がんばろう」の声をだせるだろうか

   あるいは 子ども夫婦 孫も喪い

            もう生きて行けない  彼らのところへ行きたいと    

      泣いている人に「がんばろう」といえるのだろうか

   「がんばろう」のかけ声は抽象化された「被災者」

      一般に向かって発せられるのであって

    具体的な人の顔を思い浮かべていない


   「頑張ろう」「希望」の声に

      悲しむ人は 自分を抑える

    第三者は悲惨な話に触れるのは辛いので 無自覚なまま逃げ

    健気な話題に関心を向ける

       悲哀はこうして圧迫されてきたのではないだろうか


   近代150年   多くの戦争を経験し

         今尚架空の武士の生き方、死に方を理想として

   称揚する日本社会は

      泣かないこと 悲哀を耐える形の美しさを強調してきた
    
 それが 不幸に直面した人々に対し いかに残酷に作用してきたか

   東京大空襲の被災者に対し 戦争被害受忍論を唱えた司法の主張にもよく表れている

   お前だけではない

      がまんしろ・・・・前へ進め・・というわけだ



    だが 受忍論は常に
             同じように苦しみはしなかった者から

             述べられてきたのである


・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・・・・・


   愛する人 過去の思い出の詰まったもの
    一切を失ったとき  残された人は悲哀 長い抑鬱の時間をへて

   故人との対話のなかから 自分の生きる道を再び見出していく


   この経過をスキップしたり加速したりできるものではない

    同じく社会も


     十分な悲しみの共有を通して

         信頼を豊かにしていくのである


   
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