
私だけが遺族ではないが
私も遺族
愛する息子を自死で亡くしている
悲しみを体の一部として 悲しみとともに生き、活動をしている。
活動の場で どんなにひどい事を言われても 泣いたりはしない
あなたの言葉で傷ついたとは言わない
が
講演の時や会議などでは いう時もあるけどね 個人名は言いませんが。
傷なんて 数えきれないくらい ある
活動とはそれも含めて・・・
叩かれる事なんて普通
誹謗中傷は当たり前
こころの血をどんなに流したことだろうか
ただ 残念なことに
息子を自死で亡くした悲しみという 血の涙を流して生きている私には
それ以外の
傷はたいしたことはない
嘘を言われることはよくある事
その人も 自分を正当化するためには 私を悪くいうのは防衛本能なのだろうから
弁解はしないが
言える人には事実と違うよ・・・とは伝える
一部の信頼できる人たちが
私を信頼していてくれたらいい・・
悲しみの勉強って・・・なぜするのか いまでも理解できない
祖父母や叔父叔母・・・ご近所の親しいおじさんやおばさんが亡くなる経験をしている人はいる
長く生きていると 人は自分に関係のある誰かが亡くなっているはず
私は74才なので
数多く知っている人の死を経験し
葬儀も火葬にも行っている
育ての母の祖父母・・・
養母の姉や妹弟 ・・・その叔母叔父の伴侶
祖父母
近所のおじいちゃんおばあちゃん
数えたことはないけど
200人・・・いや300人は超えているかな・・・
田舎は知り合いがおおいからね。
親も6人見送った
(夫の両親・育ててくれた両親・血のつながりのある両親)
だから
悲しみなんて勉強する必要はない
一人ひとり 違う悲しみがあることも体験して知っている
そんな時 どんな言葉で傷つき どんなことに感謝したのか‥も体験している
どうして 愛する人を喪う悲しみに 興味がある人がいるのか不思議
そんなこと 勉強しなくても 体験したら 一度で理解できるのに
それとも
愛する人が亡くなっても 悲しい気持ちがわかない人たちもいるのかな・・・
だから 悲しみに興味がわくのかも・・・
私はそもそも
他者の悲しみに興味なんて 全くなかった
たくさんの死別の悲しみに沈む人たちをみてきた・・が
私にできる事は
あまりないと思って生きてきた
今思うと 失礼なことをしたかな?と反省も多くある
それは
同級生が若くして亡くなった後に
同級生数人と自宅に焼香に行ったこと・・・
親はどう思ったのだろう・・と思う
複雑だったのでは・・と思う
人の悲しみを 学ぼうとして 悲嘆の専門家として資格まで取ったなら
悲しみを抱えている人から
意見を言われたり 批判を受ける事も含めて 受け入れる心がないと
悲しみを抱えている人に
気を使わせることになる
悲しみのケアをしようと学び 悲しみのケアを生業とする人なら
悲しみを持つ人を拒否するのは どうかな・・・?と思う
人の深い悲しみと関わろうとしているなら
ある意味で
悟りを開く修行をさせてもらっていると思う心をもたないと
悲しみを抱えている人に気を使わせて満足することになる
人知を超えた
大いなる慈悲深い存在を信じる心がないと
深い悲しみを抱えた人の 「ケア」なんて できるはずがない
ケアできたと思っている人は
遺族に気を使ってもらっている支援者
息子を自死で亡くし
遺族という生き方をして活動をしてきた
日々反省 日々懺悔
日々 多くの人たちに甘えさせてもらい 許してもらい 生きている
悲しみという消えない感情を体の一部として
常に抱えながら 生きている
元気に!
元気だけど 悲しみはあります
・・・
悲しみの勉強をしたいと思っている人たちは
自分の祖父母等身近な人の死を思い・・・悲しい気持がある事を自覚するところから始めてほしい
そう願っています
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