
自死遺族として生きてきた
息子が逝った2005年11月からずっと
変えようがない
悲しみはいまもある 激しく悲しい時もある
静かな悲しみもある
とにかくかなしい
取り除けない
2006年 NHKの朝の番組に取り上げられた時
担当者がお土産でくれた本「悲しい本」SADBOOK
マイケル・ローゼン作 クェンティン・ブレイク絵
谷川俊太郎訳
の絵本
今も持っている
その人の奥さんが流産を繰り返していて・・・息子を亡くした私にともって来てくれた
(笑顔の顔がある)
これは悲しんでいる私だ。
この絵では、幸せそうに見えるかもしれない。
じつは、悲しいのだが、幸せなふりをしているのだ。
悲しく見えると、人に好かれないのではないかと思つて
そうしているのだ。
悲しみがとても大きいときがある。
どこもかしこも悲しい。からだじゅうが、悲しい。
そんなときは、こんな顔だ。
どうすることもできない。
息子のエディの事を考える時が
いちばんかなしい。エディは死んだ。私は彼を愛していた。
とてもとても深く。でも、彼は死んでしまった。
ときには、ほんとうに腹が立つ。
私はひとりごとを言う、「よくも、そんなふうに死ねたもんだね?
私をここまで悲しませて」
エディはなにも言わない
もうここにはいないから。
こういうことを、なにもかも誰かに話したいときがある。
たとえば私のママに。だがママも、もうここにはいない。だからそうできない。
私はほかの誰かを見つける。そして、なにもかも話す。
誰にも、なにも話したくないときもある。
誰にも。どんなひとにも。誰ひとり。
ひとりで考えたい。
私の悲しみだから。ほかの誰のものでもないのだから。
悲しみのあまり
むちゃくちゃすることもあるー
シャワー浴びながら
大声でさけんだり・・・・・・・・・・
スプーンでテーブルを
たたいたり・・・・・・・・・・・・・
ほっぺたをふくらませて
ブーブーホーホー
鳴らしたり。
悲しみのあまり、ひどいことをするときもある。
ひとには言えないこと。
ひどすぎるから。相手が猫でも。
私はあまり苦しまずに、悲しみをやりすごすほうほうを
ずっと探しつづけてきた。たとえばこんなこと。
誰にだって悲しい事はあると、自分に言い聞かせる。
私ひとりだけではない。きみにだってあるだろう
毎日なにかひとつ得意なことをしようとする。
そうして、ベッドにはいると、そのひとつのことを
これでもか、これでもかと思いえがく。
悲しむのは、ひどいことをするのとはちがう。
私は悲しいのだ。悪いのではない。
毎日楽しい事をひとつはしようとする。
誰かにいやな思いをさせるようなことでなければ
どんあことでもかまわない
それから、悲しみについて書くこともある。
悲しみは、どこにあるのか?
いたるところにある。
そいつはやってきて、きみを見つける。
悲しみは、いつくるのか?
時をえらばない。
そいつはやってきて、きみを見つける。
悲しみとは何ものか?
人をえらばない。
そいつはやってきて、きみを見つける。
しかし、自分がいろいろなものを見つめているのに、気づくときがある。
窓べにいる人々・・・・・・・・・
クレーンと
いっぱい人を乗せて通り過ぎて行く電車。
そうして、私は思い出す。
雨の中のママ。
通りを歩いていくエディ。
笑って笑って(笑)ころげながら。
学芸会で、おじいさんの役を演じるエディ。
ソファで、シュート合戦する私とエディ。
そして誕生日・・・・・・・・・
私の大好きな誕生日。
自分のだけじゃない・・・・・
ほかの人のも。
誕生日おめでとう・・・・・・・・に始まるなにもかも。
そしてロウソク。
ローソクがなくてはね。
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