自死という死への偏見

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ドストエフスキーは、「高い山の頂上の岩上で永久に立っていなくてはならないとして
も、それでも自分は生きたい」と語らせていますが、それがたった一つの命しか持ち得ない人間の
真実だと思います。しかし、にもかかわらず、その命を自ら絶つほかない状況に追い込まれるのも
人間です。自死はどれほどの苦悩の果ての行為なのでしょうか。世間は、自死者に対して、様々な
非難を浴びせかけます。その非難は、つまるところ、「他人の迷惑を考えずに勝手に死んだ」とい
う認識に基づいています。その認識からは、自死者がどのような状況にあったのか、その状況に陥
ったのはなぜなのかという、社会が本来発すべき問いは出てきません。

という文章に・・・涙があふれてきました。

    どんなに苦悩した末の死だったのか・・・

どんな境遇でも生きたいと思う人間の本能さえも消すような苦悩とは・・・
    生きている私たちはその苦悩は知らない
なぜなら 苦しいといいながら生きているから・・・
    
 言葉にならない苦しみや悲しみ
    があることを 私は知らなかった

自死で子供を亡くした親の話は 「いのち」の授業にはふさわしくないと
   教育関係者は思っているらしい

 そこにあるのは「子供を死なせた親」
        「愛情がないから死なせた親」
           穢れた死  
              気味が悪い という思いがある気がする
 いのちを大切にしなかった子供
     いのちを粗末にした人たち
   という考えもあるように思う

       全く分かっていない
   自死への無理解な社会・・・

     死にたい人が死んだのではありません
死にたいなんて思う特殊な人間が自死しているわけではありません

 死にたい人に寄り添うのが 自死予防だなんて 偏見を増長させる言葉です

       死にたいと思う事と  死んでしまうことは180度違います
           死にたい気持ちと 自死が紙一重だと思っている人が多いようですが
死んだほうがまし・・・と 思うことは人生でよくあります
    そして ことばとしてよく使います
        軽く・・・軽いノリで・・・
     死ぬほどつらい  とか  死ぬほどの思い・・とか

   そんな気持ちを持ったことのある人と
   自死した人を比べないでほしい
        別物ですから

息子はいつも死にたくない・・と言っていた

 でもあっけなく逝ってしまった 一度で・・・

      そこまでの苦悩は生きている私には想像でしかない

   健一に聞いてみたい
なぜ死んだの・・・?と   
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