悲しみもまた 私のもの

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 8日から熱が出て寝込んでいた

 10日のフォーラムのために 点滴を受け 解熱剤を飲み続け
   なんとか皆さんのおかげで大勢の参加者をお迎えしてのフォーラムを無事に終え
 ~~~11日 夕方から悪化
    40度近い熱が下がらず ひたすらに寝て~寝て~介護してもらい~寝て
19日から やっと ご飯が食べられるようになった
  20日からは 元気いっぱいで 疲れもなく 片付けをして
     スルーしていた書類の作成をして
   なんだか とても元気な自分がいます

  熱があっても 遺族からの相談は待ったなし…最優先
      それが息子への懺悔

  今日は健一の45歳の誕生日
     お寺さんの秋彼岸回向も重なり 午後からお墓参りとお寺さんでの回向

 前回書いた困ったちゃんは
 東京の歴史ある遺族支援の会の80歳の男性のお話

 以前も 岩手県の行政主催の会に講師で行き 
   参加遺族を大声で怒鳴ったという人

  悲しみ比べも平気でする

   自死遺族支援を目的としているのに
      自死遺族を批判する

 遺族の批判をする支援者は 支援をやめたらいいだけのこと

   支援者の都合のいい遺族だけを選んで 支援するのは どうなんだろうか

そして 悲しみを支援する側が比べるのはもってのほか

    それぞれの胸の内で「自分が世界で一番悲しい」と思うのは自然なこと
しかし
 相手のいる場所でそれを声にすることは いかがなものだろうか

  悲しみは 亡くなった人と自分の間に沸き起こる感情
    亡き人と自分の関係性においての愛からの感情

一人ひとり違う
 違って当然

 健一への愛は 夫と私も違う
    同じ感情ではない
だから 悲しみもそれぞれ・・・
   私にとっての私の悲しみは 私が一番悲しい

夫も 夫の悲しみが夫にとっては一番悲しい

 それが普通

ましてや 他者が 人の悲しみを比べるなんて ありえないこと
   それも 支援者が 遺族の悲しみを比べるなんて  とんでもないこと

 悲しみに正しいも間違いもない
 ただただ かなしいだけ

 偉そうに 伴侶を亡くした悲しみは・・・とか
    子供を亡くした悲しみは・・という 支援者がいるが
本を書いている人も多いが
     ひとりひとり悲しみは違う
子供でも夫でも親でも
  1000人遺族がいたら 1000人の悲しみがある 比べられないし 一緒にはできない

あるグリーフケアの専門家がこんなことを言っていた
「遠くから見たら 悲しみは全部一緒」
 「猫もいぬも人間も」
その中で「伴侶を亡くした人が世界で一番悲しい」「これはアメリカでの研究よ」と・・・

   そもそも 悲しみ比べをしない
 ということが グリーフケアでは原則
なのに なぜ伴侶が一番悲しいという悲しみ比べを公開しているのか・・・
    
   一貫性がない
 骨子がない
 信念がない

    それは 科学的に証明されたものでもなく 学問でもないからである

横文字 カタカナ語に惑わされないこと

 自分の悲しみは自分のもの 誰のものでもない自分のもの
     
抱えながら どう生きていくのか・・・
 それもそれぞれ・・・で見つけるもの・・・

 自分以外の遺族の生き方は、参考程度にはなる 

その程度のもの

 11年が過ぎようとしていますが
今も 胸が苦しくなるほど 息が止まるほど かなしい気持ちは消えません

 死ぬまで 抱えて生きようと思います

健一を愛しているから・・・今も・・・これからもずっと・・p1080277.jpg
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