悲しみとは

26842_1[1]



悲嘆の病理化
 悲しみを病気だという人たちがいる

記憶は消せない  愛も消せない
   愛している人の死だから悲しい

愛するが故の悲しみ
     愛する人が亡くなったら 愛することをやめなければいけないらしい
 愛することをやめなければ 複雑性悲嘆 遅延性悲嘆 
  ということで
治療の対象になるのだそうだ

 保健師さん グリーフケアを推奨している皆さん
  
   悲しんではいけませんか?

以下は
奥さんを亡くした人のブログより


人の悲しみを~プログラムでなんとかしようとする人たち。

その1年以上悲しみが続いたら病気というその1年はいったい誰がどのように決めたのだ。



12年近く経った今でも、

亡き家族の誕生日が来るたび、

共に訪れた記憶のある場所に近づくたび、

共に聞いた曲が聞こえて来る度、

共に暮らした年号の数字をみるたび、

こうして、文章を書いていても、胸は張り裂けそうになる。



頼むから、放っておいてくれ。

悲しみは他人がどうにか出来るものではない。



悲しみが消えて無くなることも苦しいのだ。苦しいが、苦しいから救われる一面もある。

いや、悲しみが消えてはこまるのだ。

悲しみだけではない、怒りや自己嫌悪も消えることなど無い。

傷は消えて無くなることなど一生無い。深く刻まれて自分の一部となる。

悲しみはすでに私の人生の一部だ。



10年以上経過して、直後の血の吹き出るような悲しみは今は無い。

時間薬と、新しい生活の中で、少しずつ未来を足していく。

それぞれやり方、歩みの中でしか、その直後の強烈な痛みは消えない。



怒りや悲しみを綴ることによって折り合いをつける人も居る。

懺悔のような暮らしで、罪を償おうとする人も居る。

子どもの日記を本にして、なんとか生きた証を残そうとする人も居る。

私の活動に参加して、同じ過ちを犯さないように他人をお世話することで心を落ち着けようとする人も居る。



しかし、何をやっても無駄なのだ。悲しみは消えないことは皆わかっている。それでも、何かしないと生きていけない。どこをどうしても割り切れない理不尽な現実の中で生きていくのだ。



面白おかしい人生があるのか知らないが、悲しみに満ちた人生も大切な人生である。それより、人としての一番の不幸は、悲しみも怒りも失うことだと私は思う。



こころの専門家なんて輩に出来ることなどなにも無い。



こんなところまで、医学モデルが出しゃばってくる異常。

悲しみを癒すプログラムなどあってたまるか。

人は、人生はそんな薄っぺらな単純なものでは決してない。
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント