死と悲しみ

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昨日は 熊本から日帰りで活動を聞きに来てくれた女性と飛行機の時間ぎりぎりまでお話をして・・・

慌てて家に帰り夕ご飯の支度。久しぶりに3人でごはん。

本当に久しぶり。

今朝 夫とコーヒー飲みながら 「悲しみのケアなんてできるものならやってほしい。俺らの悲しみのケアは健一が生き返ることだけ。生き返ったら活動は今すぐやめるよな・・・」と話した。この話題は何度もしてきたこと。

そう・・・無責任なのですが生き返ったらやめます。

別な意味で支援はしようと思うけど、今のような活動はできない

今の活動を10年以上続けてきたのは 息子が生き返らない現実。

寝ても覚めても 自死の問題・遺族のことだけで生きてきた。

 当事者でない人たちが 仕事ではなく 自死の問題にかかわってくれたりかかわろうとしているのを見ると、すごい人たちだなぁと思う。私にはそのような精神はない。

息子が生きていたころは、自分と自分の家族のことでいっぱいだった.
  特別に世間にお世話にならないように生きて行くことも社会貢献だと思っていた

 時々 寄付をすることはあっても それ以上の活動はする気はなかった

だから 息子が生き返ったら この活動はやめる

  私の悲しみのケアとは 生き返らせてくれること

    誰にもできないこと

神様も仏様もできないこと

   極楽浄土で逢えることがゆるぎない真実であっても
この世で会うことは叶わないこと

   死は全く怖くない
死の宣告をされても 恐怖心はない
  息子に逢えるのだから

子供を自死で亡くし  自らも末期がんと宣告を受けた人たちを知っている
    最後まで 淡々と生きて逝った

昔 叔父は 肝臓がんで治療を受けて病院で死んだが
   「死にたくない」と 鬼のような形相で叫び わめき 最後の最後までむくっと起きて
 死にたくない・・と 亡くなった・・・
   今もそのさまが鮮明に残っている

   何が違うのだろう・・・と思う

育ててくれた父と母も祖父母も 淡々と逝った
    父母も祖父母も子供を亡くして 信仰心を持っていた・・・

   悲しみのケアとは どんなことなのかと  2005年に息子が逝ってから考えてきた

  今も考え中ですが 悲しみのケアができると信じている人たちは傲慢な気がする
   自分の子供が突然死んでも
      悲しみのケアができますといえるのだろうか

   人はそれぞれですが

  私の悲しみは私のもの
  息子と私の間にある感情 誰もその間には入れない
    入れなければ 取り除けない
 私の悲しみのケアは誰もできない
    それはこの悲しみのケアができるのは 亡くなった息子しかいないから・・・





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