悲しみは愛しさ・・・身体の一部

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自死遺族の人たちに 元気に生きて欲しいと思って活動をしてきた
 悲しみは消えない
悲しみは軽くならない
悲しみは薄くならない
悲しみは楽にはならない
いつもいつもいつも 身体の一部になってしまった
 身体と同化している
寝ていても 夢の中でも 彼が亡くなったこととして意識している
 抱きしめても会話しても 亡くなったのに・・・と想いながら夢を見ている
お風呂に入ってもご飯を食べても テレビのニュースをみても
いつもいつもいつも 息子は私の中にいる
どんな時も息子は傍にいる
悲しい気持ちは今も深く深くある
胸がつぶれるほど 息ができないほど 苦しくなる時もある
悲しすぎて 歩けなくなる時もある
体中の力が抜けていくときもある
表面は元気いっぱい
幸せな人よりも元気に見えると思う
笑顔で走り回っている
心の中の悲しみを表情に出して 幸せな人に向かって泣いても仕方がないと思っている
 遺族同士なら 笑い~~~涙し~~~怒る~~~泣く・笑う・・・
 同時にしても誰も不思議に思わない
受け入れる 
 21歳の若者が遺族の悲しみがわかる・・と発言していた
「そっか」 結婚もしていなくて 子供も産んだことがなくても子供を亡くした気持ちがこの人はわかるんだ・・・と思った
 言葉が安っぽい
自死で子供を亡くした気持ちが わかると言える人たち・・・すごいなぁ~
 わかるという言葉の意味がたぶんわからないのだろうと思う
その人の悲しみはその人のもの
誰のものでもなくその人のもの
私の悲しみは 私と息子の間にあるもの
私が息子を亡くして悲しいと思う感情が生まれるのは 私と息子の間だけにあるもの
 私以外の人と息子の間にある感情は私にはわからない
 人の感情というのは誰のものでもなく その人個々・一人一人のもの
誰かがわかるというものではない
私は楽に生きようとは思っていない
息子が死んで 母親の私が楽に生きようなんて 私は許せない
苦しく、悲しく、切なくていい
それが息子が死んだことの私の報い
受け止めて生きなければならないと思う
 それでも 自分に甘い
美味しいものも食べたいとおもう
 大声で笑うこともある
洋服も欲しいと思うこともある
 たまには 酒も飲みたいと思う
欲望が芽吹く
息子は「しゃ~ないな カァチャンだから」と苦笑いしていると思う
  顔が浮かぶ
ごめん・・・許して また頑張るから・・・という私
 息子に許されて生きている
愛する人を突然に亡くした悲しみを「ケア」しようなんて思う人たちを見ると 何て傲慢な人たち、と思う
 せめて 阿弥陀様の教えなら  受け入れようと思うけど
    人間ごときの考えで 言葉にならない悲しみをどうにかしようなんて
        傲慢そのもの
人智を超えた大いなる存在でさえ 救えないこともあるのに・・・
  自分の悲しみは自分で抱えて自分なりの向き合い方で生きて行くしかない
    生き方や悲しみの抱え方の光となるのは 大いなる力を持つ存在を信じること
 信じさせてくれるのが宗教者
  教え説いて・・・光のある方向に導いてくれる人たち
そして同じ悲しみを持つ人たちが 一緒に歩いていることを知ることも大切
一人ではない 自分だけではない
  10年過ぎた今も深い深い悲しみと共に生きている
    息子と共に
息子からの贈り物は悲しみと共に生きる力と慈しみという生き方を教えてくれたこと 
   受け止めて活かして生きたいと思っている
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