fc2ブログ

悲しみからの回復はありえない

20120615164843.jpg

岡先生の原稿からの抜粋
「悲しみからの回復はありえない」

なぜ「悲しみは段階を経て癒されていく」という考えに、否定的なのだろう。

「悲しみは私の身体の一部なんです」
身体の一部なら、それは無くなることはありえない。
「悲しみからの回復」という言葉がよくあるが、手や足が無くなることを「回復」とは言わないだろう。
それが「脳」であるのなら、それが無くなれば、生きていることもできない。
悲しみが「身体の一部」である
とは、それが自分にとって無くなることはありえないものだという意味。

「回復なんてありえないでしょう?」
「悲しみからの回復」を謳うグリーフケアを心底、嫌っている遺族。
その人は、たった一人の娘を自死で喪っている。
「回復があるとすれば、それは私の娘が生き返ることですよ」と。

「回復」は、文字通りとれば、元に戻ることだ。
「元気回復」とは元気が戻ること、「健康回復」とは健康が戻ることをいう。
「悲しみからの回復」とは、悲しみから立ち直ることをいうのだろうが、
そこには亡くなった人の存在が考えられていない。

「悲しみ」という気持ちの問題だけに焦点があてられている。
「悲しみ」がある
理由やその由来などは、その背景として切り離されている。
自死遺族の悲しみは、
家族を喪った悲しみであり、喪った家族と密接に結びついて
いる。
何らかの気分のような悲しみが、宙にぶらりと浮かんでいるわけではない。

つまり悲しみが、悲しみという感情だけであるわけではない。
いつも亡くなった家族と結びついている。
だからこそ「悲しみからの回復」はないし、
もしもあるとすれば、
それは亡くなった家族が黄泉(よみ)の国から生き返ることが必要なのである。
また
「悲しみは私の身体の一部なのです」という遺族の言葉は、
すなわち「亡くなった家族は、私の一部でした」という言葉を言い換えたものだろう。

「死者が生き返ることはない」という残酷な、
しかし疑うことが許されない現実から、「悲しみからの回復はありえない」という言葉が遺族から出ている。
感情についての心理学的な法則を言っているわけではない。
亡くなった人の存在と悲しみは、ひとつに結びついている。

だから「死者のよみがえりは無い」というなかで、
もし「悲しみからの回復」があるとすれば、
それは、かけがいのない死者との再びの別離を意味する。
突然の自死によって家族はかけがいのない人を喪い、遺族となった。

そして、そのかけがいのない人との関係そのものが悲しみでもあるのだから、
その悲しみからの回復とは、亡くなった人と、さらなる距離をとることになってしまう。

「悲しみからの回復はありえない」という遺族の言葉は、
望みを捨てた自暴自棄から発したものと誤解されがちだろうが、
そうではなく「愛する家族とのつながりを捨てることはありえない」という力強い声なのであり、
的外れの同情への苛立ちでもある。

それは心理療法家の助けを求める言葉などでは決してなく、愛する家族を誇りに
思い、その存在を心の中心に置いたまま、遺族として社会のなかで生きていこうとす
る決意の反映でもあるのである。
スポンサーサイト



9月10日のフォーラムの遺族の発言  (コロナ感染の後遺症で変更となりました)

thumb5.jpg

9月10日
TKP新橋汐留ビジネスセンター
午後1時30分から 全国自死遺族フォーラム第15回を開催する
上智大学の岡知史教授の講演
自助グループについて
遺族の声としてお願いをしていた人がコロナ感染の後遺症がひどく
 県外に出かけるのは厳しいという事で 辞退

急遽 北海道室蘭の遺族にお願いをした
 後25日しかない状況で
講演を頼める人は 限られている

急なお願いにも関わらず 引き受けてくださった

 ありがたい

全国自死遺族連絡会からの報告をしようか・・とか
   遺族の手記の朗読にしようか・・とか

私が話してもいいかな・・・とか

思いを巡らせ だめかもしれないけど 彼女ならもしかしたら・・・

    ・・・・・・・・
  ほっとしています
と同時に
   少しでも多くの人に参加してもらえたいと思っています

彼女は
労基署での労災申請が認められず

裁判をしている
高校時代からの夢だった看護師として第二の人生を踏み出した息子さんは、
北海道釧路市の釧路赤十字病院に入職後、たった6ヶ月で自ら命を絶った。

パワハラをほのめかす遺書が
本人がA4の紙に綴った自筆の遺書には、パワハラの告発ともとれる文章が記されていた。

 最近はいじめの問題を抱えている遺族にお話をしてもらうことが多かったが
   今年は
 労働問題

 来年も 労働問題を!と思っている

労災を認められなかった事例も多くあります

 なぜ認められないのかも含めて
  法の壁といのちの重さを考えられたらと願っています。





新たな「自殺総合対策大綱」の素案に関する御意見の募集について  28日締め切り

OIP (8)


新たな「自殺総合対策大綱」の素案に関する御意見の募集について
令和4年8月15日
厚生労働省社会・援護局総務課自殺対策推進室
新たな「自殺総合対策大綱」の素案について、下記のとおり、御意見を求めます。

1.御意見募集期間
令和4年8月15日(月)~令和4年8月28日(日)(必着)
2.御意見募集対象
新たな「自殺総合対策大綱」の素案
3.御意見の提出方法
御意見は理由を付して、次に掲げるいずれかの方法により提出してくださ
い(様式は自由)。その際、件名に「新たな「自殺総合対策大綱」の素案に
関する意見」と明記して御提出ください。電話での受付はできませんので御
了承ください。
(1) 電子政府の総合窓口(e-Gov)の意見提出フォームを使用する場合
「パブリック・コメント:意見募集案件」における各案件詳細画面の「意
見募集要領(提出先を含む)」を確認の上、意見入力へのボタンをクリック
し、「パブリック・コメント:意見入力」より提出を行ってください。
(2) 郵送する場合
〒100-8916 東京都千代田区霞が関1-2-2
厚生労働省社会・援護局総務課自殺対策推進室企画調整係宛て
4.御意見の提出上の注意
提出していただく御意見は日本語に限ります。また、個人の場合は、氏名・
住所等の連絡先を、法人の場合は、法人名・所在地を記入してください(御意
見の内容に不明な点があった場合等の連絡・確認のために使用します)。お寄
せいただいた御意見について、個別の回答はいたしかねます。また、氏名及び
住所その他の連絡先を除き、公表させていただくことがありますので、あらかじめご了承ください。

悲しみの病理化に疑問を持とう・・・・悲しみって認知のゆがみから来るものなのか?

b36b178f72c56c55125a7ef09e197aea[1]

認知行動療法を自死遺族の悲しみのケアに取り入れている団体もある
   認知行動療法の対象となるということは
   精神的疾患や障がいがあるという前提

愛する家族を亡くして  悲しい・苦しい・無力感・せつない・・・など
  の反応は
  人間だからこその感情
愛しているからこその症状
         なぜ認知行動療法の対象となるのか 理解に苦しむ

グリーフケア
 遺族外来
今度は認知行動療法
       よくもまぁ~次々と 悲しみの病理化を企てるものです

悲しみは愛しさと共に・・・
愛しているからかなしい ・・・・
  深く悲しいのは  深く愛しているから
 亡くなってもなお愛しているから・・・悲しい

  この最も人間らしい「悲しい」という感情を
   なぜ認知のゆがみと結びつけるのか わからない

 
  上智大学の岡先生が講演で話されていたことがあるが
「かなしみ」を病気にしたほうが
  支援者はやりやすい  支援がしやすい
(支援って何をするのかわからないが 支援をした気分を得られるという事だと思う)
  認知行動療法も
  なんか 特別なことを遺族にしてあげているという気分になるのだろう

グリーフケアも同じ
遺族外来も同じ
        支援者側の満足を得られる方法としか思えない

  支援者に問いたい
支援者であるあなた自身の家族が自死したら
    あなたも
 認知行動療法を受けてくださいね

グリーフケアで癒されてくださいね
 精神科に行き  治してもらってくださいね
  悲しみを!

   癒され…治るのでしょうから

また岡先生のエッセイにこんなエピソードがあった

   ある女性と話していた時  子どもさんが亡くなったと話してくれた
    その女性に
         少しでも気持ちが楽になればと思い 会を勧めた

その女性は
  「楽になろうとは思っていない」と言った

ハッと気づいたという内容

 子どもが自死し、母である私が楽になろうとは思わない
   楽してはいけない
と思い 生きてきた
 それでも
息子に比べたら  楽して生きている
    お風呂にも入り ほっとする時間もある
美味しいものを食べて あ!美味しいと思うこともある

心の底からではないが  笑うこともある

   悲しみを軽くしたいとは思わない
重くていい 重い悲しみは息子への愛の重みだと思うから

 それを
認知行動療法なんかで  私のこの気持ちの何をどうしてくれるというのだろうか

  軽くなんてしてほしくない
      私の息子への愛を 軽くしないでほしい
他者に何をされようが
  息子への愛は変わるわけがないけど・・・

 苦しみや悲しみ さみしさや虚しさ
   言葉で表現できない  心
しかし
ずっと通夜の時や葬儀の時のようではない
  発見時の時のようではない

ご飯も食べられるようになって行く
   美容院にも行くようになる

普通の暮らしの中に いつも悲しみもあるというのが遺族

   悲しみを知らない
鈍感な人よりは   亡き人を思う気持ちが深い自分を誇りに思う

   認知行動療法なんて
      自死遺族に施している人たちよりは  悲しみのある自分の方が人間らしいと思う

グリーフケアも同じ
遺族外来を開いている医師も同じ

   自分の子どもが死んでも 
      楽になり、幸せになりたいと思う親がいたら   その人には合うのかもしれない
 私には考えられない

 息子は死んだ  私は生きている 死ねなかった
それだけでも
   申し訳ないほど  楽して生きていると思っている


誰も親族で死んでいる人はいないという人はこの世に存在しない
  親族の誰かが亡くなって…私たちは生きている

その親族が亡くなっても  悲しい気持ちの薄い人たちだから
   自死遺族の悲しみは
特殊だ・・・いや自死でなくても 遺族の悲しみを病理化できる

 亡き人を悼む心があったら
悲しみの病理化はできない

悼む気持ちがあっても 病理化したい人たちは
   金や自己満足のためとしか思えない
遺族も
 プライドを持ってほしい
亡き人たちのためにも

     自分たちの生き方で  自死した人たちへの偏見や差別をなくすことができる
        悲しみもまた 自分の宝物
   悼む気持ちの深い人は   人間らしい人

   悲しみを病理化する人たちの 満足の材料にならないでほしい

      支援者の 人生を豊かにするために
           自死したのではないのだから

私は 悲しみを抱えて生きているけど
  憐れまれたくはない
    亡くなった息子から  たくさんの事を教えてもらい
      生きている

 悲しみは愛しさと共に・・・です







 

当事者無視の、世間受けするだけの自死の予防対策が多い・・悲しい

engei_121874.jpg
 
明日は石巻に行く
「たんぽぽの会」自死遺族の会の開催

  仙台から快速電車で1時間と少し
  お昼前に家を出て 帰りは夕方・・ほぼ夜

   昼ご飯は電車の中

2005年に息子が逝き 2006年に活動をはじめ 
   2022年の今・・・・・・・・・
毎日 誰かが亡くなっている
   遺族からの連絡も毎日ある

  遺族の多くは 「分かち合い」の会に参加することもなく
    自分だけの・・・家族だけの胸に収め生きている

  ある意味で強いなぁ~と思う
私は
  弱いから 自分の胸に秘めて生きられない
   立ち止まることもできない

自死の問題の中でしか 息ができない
   息子はなぜ死んだのか・・・
     なにが問題だったのか・・・

  どうしたら 息子は生きていたのか…も考える
     
 一つでも 違う事を選んだら  生きていたと思う

     自分を責める・・・
そして社会を見つめる

  警察という組織の問題
上司のパワハラ  それを知っていて スルーしている仲間

 金だけが大切で  夫を大切にしない妻
     その家族
妻に遠慮して
  息子を優先しなかった私

そして 精神薬
     
    正義感のある人は警察官にはなってはいけない・・・という事も知った

自死の予防なんて  ほとんど実施されていない事も
   知らされた

 電話もチャットも  つながらないし  つながっても死ぬほどの苦しみの解決にはならない
  愚痴程度なら
   役に立つが・・・

自死の予防というと  必ず一番に取り上げられるのが貧困
   ホームレス
国の委員会にも  貧困支援の団体が参画している
  
 予防のための・・支援のための・・会合があると
   必ず参画しているのが 貧困支援団体

  彼らの発言には 刺を感じる
   貧しい知識のない  低階層の人たちが自死する・・・
自死する人たちは
貧しい知識の低い人たちが・・・  へらへらしながら死んでいくんですよ!などという支援団体の代表もいた

17年間
いろんな会合に参加したからこそ
  いろんな差別的発言も言われ
     講演の中でも聞いた

 自死の予防をしているという人達がいる
   その世界では有名な人たちもいる

   そんな人たちの多くは  自死への差別と偏見に凝り固まっている

もちろん  遺族等の声を聞き
   考えを変えた人たちもいるが・・・

私は
息子を誇りに思っている
 彼は 働き、家庭を守り  仕事にまじめだった

そして 生きたかった
   生きたいと願っていた

   だが死んでしまった

警察官として頑張っていた
   大きな死亡事故がおきた後
  署が対策本部を設置していれば・・・・・・・

息子の負担は軽くなった
  上司が 部下に息子の仕事のシェアを指示してくれたら・・・
パワハラをしなかったら

  妻がもう少し 賢かったら

・・・
  精神科を勧めなければ

 別居させて、息子を我が家に連れて帰っていたら・・・
 
このうち  ひとつでも 実現できていたら
今頃息子は生きていた
  そう思う





     

今日は茶話会

140983313.jpg

今日12日は「遺族の茶話会」を開催
  第2と第4の金曜日に開催している

  わかちあいの会ではないのでテーブルを囲んでお茶をしながら・・・という雰囲気

自死以外の人も参加Ok
   
   仙台には いろんな会があるが「藍の会」以外は 支援者が運営の会

 私は自助グループにこだわってきた
   「悲しい」という気持ち
 愛する人を亡くした複雑な言葉で表せない感情は
     同じ体験をした人でしか  わからないと思うから・・・

私も息子を亡くする前は
  子どもを亡くした親の気持ちはわからなかった

   神妙な顔をして 話を聞くことはできる  
悲しいだろうという想像はできる

    でも  胸がえぐられるような 悲しみにはならない
(若い頃  子どもをため池で亡くした友人夫婦の話を聞いたが、胸は痛くならなかった)

息子を亡くしてからは
   言葉で言われなくても
              遺族の気持ちは理解できる
自分も体験しているから
笑顔で居ても その人に心の底に悲しみが潜んでいる事がわかる

何も言わなくても  理解できる
それが 当事者同士

それでも
言葉で表現できない心を 相手に伝えようがない
  
    同じように子供を亡くした親同士でさえ
          分かり合えない事も多い

  自分の悲しみは 自分だけのもの
     誰のものでもない

他者に
  理解してもらおうとは思わない

    理解できないと思うから。

  ただただ 一方的に自分が話し、
 一方的に聞いてくれるだけでいいのなら
     支援者のほうがいいのかもしれない

誰に話すのかは
自分が決めること
    自分が遺族には話したくないと思ったら それでいい
幸せな
友人に話したほうがいいと思うなら それでいい

カウンセリングを受けたほうがいいと思うならそれでいい
でも
 精神薬だけはダメ!

たくさん 話すことが 遺族には必要
少なくても私はそう思う

   胸の内にとめておける人は  すごいなぁと思う

昨日は息子のお墓のあるお寺に行き
  盆の回向 
明日は 仏壇をお盆のために整え 灯ろうをだして・・・
 今年で17回目のお盆を迎える
    
 悲しみとの付き合いは慣れてきたけど
    胸の痛みは 今もある


  
           

医師不足の中で、増え続ける精神科医と患者・・・

20120610140931.jpg
医師不足と言われる中で
   精神科医は際立って増えている
平成26年から平成30年までで 6.6パーセント増加
  精神科・診療内科の増加率
1978年 ̄2017年まで
  152.2パーセントの増加率
   それに伴い
患者も増加
   392万4千人

  児童精神科医という人達が突然現れ
    児童生徒の発達障害が増え続け
      それに便乗して 大人の発達障害という病名が突然作られ
  大人の発達障害も増えてきた

生きづらいという人達のほとんどは  発達障害らしい

    うつ病は心の風邪
という
製薬会社のキャッチコピーが大ヒットし
    誰でもがかかる精神的病ということで  気楽に精神科に行くようになった
その結果
うつ病の患者が爆発的に増え
     一回精神科に行き 精神薬を飲んだ人たちは
治ることなく
     10年20年 30年と うつ病で苦しみ 抗うつ薬を飲み続け
      自死していく人たちも増えてきた
また 自死まで至らずとも
  仕事をしていた人が  働けなくなり
家事を普通にできていた人が
  家事もできなくなり
              精神障がい者年金受給者が増え 生活保護世帯も増えてきた

   会社の役員をし
トライアスロンをしていた女性が
       子どもの自死をきっかけに
  家族が精神科を勧め
     入退院を繰り返すようになり
          突然 家を飛び出して 叫んだり
      部屋でグルグル回るようになったり
          じっと座っていられなくなって行き
  今では
 完全に 統合失調症の症状が出て
   苦しんでいる

   精神科に行かないようにとアドバイスした

家族の勧めもあり
    行ってしまった
その後は
      できるだけ クスリは飲まないようにと勧めた

家族の勧めが優先された
結果
   完全に統合失調症の症状が出て
      苦しんでいて
 それを診た医師も家族も
   彼女を統合失調症だと信じている
        子どもを亡くした時 その人は50才 それまで普通に働いていた
    
薬物による統合失調症の疾患者となっている

 精神薬によって 一度壊れた脳は 元には戻らない
    壊れていない脳を使い
       回復するしかない
 
記憶障害も含めて 様々な障害が出てくる 副作用として・・・

   前頭葉が壊れていく・・・
    理性をつかさどる脳
     人格が壊れていく

                 被害妄想が出てくる
自意識過剰とも思うほど  人の目線が気になって行く
  誰も見ていないのに
  見られていると感じる
           家を覗いていないのに のぞかれていると感じる

服装を気にしなくなる
            人への配慮が欠けてくる

夜中の電話がその例
     何度も電話をする  何十回も連続して夜中にかける

     落ち着かない
                    椅子に長い時間座っていられない

 精神薬は怖い
    脳神経が壊れていくのだから・・・

  アルコール依存より怖い
              薬物依存のようなもの
 
  
  精神薬を減らしたり やめていく事を願う

    愛する人を亡くした悲しみと苦しみは 病気ではない

従って クスリを飲んでも  悲しみは消えない
     そもそも
悲しみが 精神薬で治るなんて 考える人の方が
  妄想癖があるとしか思えない

   悲しい気持は 精神科に行っても  どうにもならない

もがくしかない
 泣いて泣いて 泣いて・・・・・泣くしかない

苦しみ 苦しみ  苦しみ抜くしかない

     涙の河に身を任せ  流れるしかない

   毎日あふれていた涙が
         少しずつ  月日と共に 減っていく
 涙が枯れることは無いけど
      減っていく

   悲しみに慣れていく  苦しみに慣れていく

  悲しみと苦しみがあるのが  普通の生活になって行く

   治らない身体的障害と同じように
       悲しみと苦しみを抱えているのが  私という人間になって行く

  悲しい気持をどうにかしようと
  精神薬を飲み続けると    亡くした家族を思う悲しみではなく
     単に自分が悲しいだけになっていく

 遺族には
  精神科に行かないように・・・と  願う

遺族外来なんて  ナンセンス以外の何物でもない





ある人からのFAX

134840701542213204000.jpg
 今日は菩提寺のお盆回向の日
   お墓参りをして
        本堂へ

コロナ前はお寺の行事をお手伝いする「ききょう会」で
お墓参りの人たちに
「氷水」の無料提供をしていたが
   3年続いて 今年もできなかった  とても残念

子どもたちが
   お墓参りに来て  氷水を何回もお替りしている姿を見て あたたかい気持ちになっていた
  が
  いつ再開できるのかな・・・
 
・・・・・・・・・・・・・・・・
   今日 ある人からfaxが届いた
     メルアドを知っているはずなのに  なぜfax?
   
この人とは二度と関わらないと決めている
  何度も裏切られ
何度もひどい事をされた

   人とのご縁を自分からは切らないと思い生きてきた
 切られることはあっても
  切ることは無い・・・と

   しかし 仏の顔も三度までというが
    4度・・5度と 
         ひどい目に合うと  さすがに元のつながりはできない

    フォーラムへの参加や
    懇親会への参加は お断りはしていない
       
     嫌な顔ももちろんしたことはない(ある人へ)

しかし
それと
この人と 一緒に…協力して・・・
というのは
別の問題

 この人だけではなく    多くの裏切りや
        誹謗中傷や  あり得ないような仕打ちも・・・あります

  と同時に
    素晴らしい人たちとの出会いも たくさんいただき
活動の輪が広がってきました

     一度や二度の過ちや 誤解 勘違い  全然大丈夫です
  私も
もしかしたら  気がつかずに ひどい事をしているかもしれませんから・・・

   許し 許されて 生きていると思っています   が

    何度も何度も 
              ひどい事をされると・・・
  凡人の私は
       表面だけの交流は出来ますが
          一緒に‥協力  という形では無理です

 意見の違いはあって普通です
     が
                        どんな思考で 私に活動への協力を依頼するのか
                              理解に苦しみます
  

・・・・・・・・・・・・・・・03a258b910c4d6a3d3c19d21b809415c.jpg

 今日はお墓参りもして  心静かにと思っていたはずが
   心が ざわついた1日でした

明日は 「遺族の茶話会」
  日曜日は石巻市の自死遺族の集い「たんぽぽの会」

急ぎで
   「全国自死遺族相談支援センター」~自死遺族等の権利保護研究会~
  のホームページに掲載する
    内容を整理して  管理者に掲載依頼を・・・

   やることがあり過ぎて
  能力が追い付いていない

       頑張るしかない

  


     

自助グループ活動は仕事ではない

img_0.jpg

全国自死遺族連絡会は一般社団法人
 でも
  専属の事務員はいない
会員の登録を頂く事はあるが
 会費はない
     もちろん賛助会員もない・・・
皆さんからのご寄付での運営です

   毎月500円の寄付を続けてくださる人もいる
1年に多額の寄付をしてくださる人もいる

   切手の寄付をしてくれる人もいます
封筒や便箋のご寄付もあります

飛行機代やホテル代を援助してくれる遺族もいます

  いろんな形でのご寄付はありがたい事です

 ご寄付は自死 遺族がほとんどですが
    ご縁のあった遺族以外の人からのご寄付もあります

 事務員はいないのですが
   会計は税理士がやっています
(税理士報酬は無料です)
 
講師の税金なども含めて申告し 支払っています
  
  法人としての登記などもあるので司法書士も依頼しています
(安い報酬です)
   ホームページの管理や メールからの問い合わせ
     メーリングリストの管理など
  遺族の皆さんの気持ちで
     管理してもらえています

事務員を1人雇えば 1年に200万~300万円は最低必要となりますが
    無報酬での活動なので
       フォーラムなどの会場費や
    講師謝金・・交通費・・・チラシも自前での作成なので
      コピー用紙代や印刷のためのインク代

   送付用の切手や  レターパック代  封筒 便箋等
実費だけ

     今年で15回になる全国自死遺族フォーラムも
 補助金や助成金は使っていません

  最初の頃に日本財団から会場費の無償提供などを受けていたが
     3年ほどで 自前での開催としてきました。

  第三者調査委員会設置などの時は
   遺族の代理人もしますが
当然無報酬です
          
  講師として講演することもありますが
    もちろん 寄付となります

  亡くなった人がいるからの活動です
      だからこそ
    生活費を稼ぐような活動にはしない!と決めています

亡くなった人の事を語り
  お金を得て 飯は食いたくない 
      
活動をする人たちが
生活をするための収入は 自死の問題とは関係のない事で得る
    というのが 全国自死遺族連絡会の信念です

 自死をビジネスとしたくないと思っています

   ビジネス化すると
     自死が減ることは望まないでしょう
自死遺族支援団体も
   自死が減ることは望まなくなります
   
最初に自死遺族支援と掲げていた団体が
 いつの間にか
     大切な人を亡くした人という内容に変化し
  震災があると
  震災遺族支援となり
       遺族なら誰でも支援をする団体への変化しています

自死遺族とは
   どこまでの関係を示すのか・・と  質問されたことがあります
(支援団体の代表から)
     その時 司法書士会の代表が 「相続に関係する人」と答えたと記憶しています。

  負の遺産もあります
埋葬もしなければなりません
     アパートなどの整理も含めて遺品の整理も・・・
「悲しい」という気持ちだけではない
  煩雑な作業がたくさんあります
      親戚との問題なども・・・供養も
     日々の供養も お金のいること
「かなしい」だけでは
    どうにもならない事もある

亡き人の残した子育てもある  亡き人の親の介護もある
 事故物件の賠償金の問題も大きい

  



  

自助グループは相互扶助の活動である。お客さんは誰もいない。

OIP (16)
岡先生の原稿から

自助グループの働きと成り立ちの基本的要素について書いたが、ここで自助グループと社会のつながりを、特にサポートグループとの違いから、それぞれの基本的要素とのかかわりで整理しておきたい。

自助グループは「自助」という言葉のイメージから自分のことだけにかかわる「内向きの会」のように誤解されていると思うからである。

 まず、「わかちあい」であるが、
サポートグループの場合、その場にいない当事者について思いを馳(は)せることはないだろう。
サポートグループに招かれる遺族は、
いわば「お客さん」だ。「お客さん」が、
その場に招かれていない人について考えることはない。



自助グループでは、その場に来ることができなかった人、

あるいは、まだ「わかちあい」があることを知らない人にも声が届くように、
メンバーの体験談を広報紙に載せたりする。
「わかちあい」は、外にも開いているのである。

 「ひとりだち」は、サポートグループの場合は、
自分の生活がなんとかできるようになれば、それで良しとなるだろう。

しかし、自助グループは、私生活での「ひとりだち」だけではなく
社会参加を通しての自立も目指している。


たとえば、自助グループが取り組む課題について、(自助グループの代表者を排除したうえで)
専門家や支援者、行政機関の担当者が、当事者に代わる者として(代弁者として)
社会的に発言したり、行政の審議会等に参加したりして、政策の策定や実施に関与することはよく見られる。

これは当事者が、専門家や支援者と対等な立場で、行政機関等に対して影響力を行使する資格がないとみなされているということで、当事者の社会的な「ひとりだち」が阻(はば)まれている状態だといえる。

この状況を変え、当事者が市民社会を主体的につくっていく市民となる過程も「ひとりだち」とみなすべきだろう。

 「ときはなち」では、社会とのかかわりは必須だ。
社会からの偏見や差別を変えていかなければいけない。

サポートグループ、特に行政機関が運営しているグループでは、このようなことはほとんど不可能だろう。

 なりたちの基本的要素である「体験の共通性」については、それは「まだ見ぬ仲間」にまで広がっていく。

これはサポートグループでは、ほとんど考えられないだろう。
「サポートグループ」に集まる人々は、みずからを「サポート」が必要な人としてとらえている。
問われれば、「自分のことで、せいいっぱいなのに、他の人のことまで考える余裕はない」と答えるかもしれない。

 「活動の自発性」は、グループに集う人たちが、グループのなかだけにと留(とど)まることを許さないだろう。
広い社会のなかで孤立している自死遺族が気づくように広報活動を行い、
行政に働きかけ、差別の解消にむけて働きかける活動が続くだろう。
サポートグループでは、このような活動は弱いと思われる。

 「活動の継続性」は、それを実現するために、社会とのつながりは不可欠だ。
グループが社会とつながっていなければ、新しいメンバーも加わることなく、
やがて活動は停滞し、グループは自然解消となるだろう。

 自助グループと社会とのつながりの重要性は、

自助グループにたどりついたばかりの遺族には理解しにくいかもしれない。

しかし、その遺族が、自助グループに助けられたのは、
グループが社会とつながっていたからこそである。

古いメンバーは、新しいメンバーに、それをしっかりと伝えていく必要がある。


子どものいのちが喪われた後の学校の対応・・・いのちの教育なんて語る資格がない

ヤンバルセンニンソウ

児童生徒の死(自死も含めて)
教え子が亡くなったのに
担任は  なぜ  お悔やみに行かないのか・・・
  管理職として教頭も校長も行かないのはなぜなのでしょうか・・・

病気や交通事故などでの死亡は行くようですが・・・

 自死だと行かないのは なぜ?

   また最近は 毎月焼香に行く教師もいるらしい
    いつまで続くのだろうか
たぶん長くて2年
   2年で生徒の自死の場合の時効がくるから・・・
 第三者調査委員会も
裁判も 2年で時効になるので  遺族は2年過ぎたら訴えることは難しい


  亘理町の中学校の例
   生徒が搬送された病院に来て
  校長たちがいる所で 担任が遺族に「私が・・・」と言った

その後の通夜や葬儀には担任はこなかった
その理由は(学校側からの言い分)心労で参列できる状態ではない
   *****
しかし
その後 海外に研修旅行に行っていたことが発覚

心労で通夜にも葬儀にも
  その後に焼香に来ることもなかった担任
 オーストラリアに行っていた

  もちろん  一度も焼香には来ないままで3年が過ぎた

また
ある小学2年の子どものケース
   自死ではない(母子心中)
焼香に来ない
誰も・・・・・・・・
 同級生の子どもが自分の親に
「去年 ○○ちゃんが亡くなった時は、みんなで祈ったのに、なんで▽▽ちゃんの時はしないの?」
  と聞き  その親が学校に子どもが心を痛めているので
   黙祷の時間を作ってくださいと連絡

しかし
  学校は無視

  当然のようにこの学校の担任も教頭も校長もお悔やみには来ない

  第三者調査委員会が立ち上がっても
  報告書が出ても
    当然のように 担任も教頭も校長も来ない

  教育長が来ることが多い

亡くなった子供と接していた教育関係者は 誰も来ない

これが日本の学校の現実

 いじめの有無や体罰の有無に関係なく
また
  犯人を捜しているわけでもないのに
なぜ
クラスメイトや担任や校長が来ないのだろうか

   人としての問題だと思う

事故や病死は お悔やみに行くのに
なぜ
自死はこないのか・・・また自死でないのにも関わらず  
   いじめの問題が
      存在すると思われる死については 子どもの 死を悼むこともしない


 どうして
   通夜にも葬儀にも その後の焼香にも来ないのか

    他の死の時とは違う対応は 自死への差別だと感じる

   それとも
  いじめや体罰などに 心当たりがあり
  
  疚しさから 来れないのだろうか

普通に焼香に来てくれたらいいのに

わざとらしく 毎月来なくていいから
    最初の通夜と葬儀ぐらい参列してもいいかと思う

葬儀場がわからないからという言い訳をする学校もあるが
  自宅はわかるので
    自宅に来たらいい

出も来ない
   
 警備会社の
パートやアルバイトが 亡くなっても
   通夜や葬儀には会社の関係者が参列する

  息子が亡くなっても
   私がパートで務めていた会社の人たちは参列してくれた

なのに
  学校の児童生徒が亡くなっても
担任すら来ない学校
  
   そこに教育はない

命の教育とは言っているが
      クラスメートが亡くなっても  担任すらその命を悼まないのを見て
        子どもたちのいのちの教育になるわけがない