
明日の講演内容の一部
自死は自分には関係ない事という意識がほとんどの人にはある。
私もそうだった。管区機動隊が長かった警察官の息子は忍耐強く、正義感にあふれ、人の死にも接し遺族の悲しみを見ているから、パワハラを受けているのは知っていたが自ら死ぬはずがないと思っていた。
しかし、息子の死は突然やってきた。
葬儀を終え、10日過ぎ、嫁(孫もいた)とその親から絶縁を言い渡され、殺意がわいたこともある。
夫と次男は一か月以上仕事を休み支えてくれたが、亡くなった息子の事で一日中身を切られるような悲しみと苦しみが続き、精神科にも行き、様々なカウンセリングも受け、占い・お寺・教会などさ迷い歩いたこともある。
自殺・うつ病の文字があるシンポジウムやセミナーにも参加した。
なぜ、息子が・・・そんな日々の中で「遺族に会いたい」と思った。
そのためには、自分で遺族だと声をあげて、遺族が集う場所を作る事しかなかった。
やる気満々で遺族の会を立ち上げたわけではない。人を恨まず、殺人者にならず、生きるために立ち上げた。
ところが、活動をはじめてから自死遺族という事への差別的扱いを受け、自死した息子は生きていたいともがき、苦しみ亡くなったのに、死後もこんなに蔑まれるんだと愕然とし、それが怒りへと変化した。
文字を読めない人・ご案内の文章が理解できない人という扱いを様々な機関や団体で受け、厚労省と内閣府の対策の経緯など資料を掘り起こし読み漁った。
「自殺対策基本法」「自殺総合対策大綱」に掲げられている内容とは、真逆の自死遺族の支援内容が研修されていたことも知りました。予防対策も見当違いの内容がほとんどでした。地方の「わかちあいの会」では国に声が届かない事を知り、全国組織の自死遺族の団体(全国自死遺族連絡会)を作り、何度も担当大臣や担当参事官に会いに行き訴え続け、東京日比谷公園、厚労省の前でビラ配りも行い16年が過ぎ、少しずつ、遺族の要望が取り入れられてきました。
しかし、活動をしていくと、支援や予防の裏事情が見えてきます。
自死の予防や支援をしている団体や機関にも、人を死に追い込む社会が存在していることがわかってきました。人間の性なのでしょうか。
そもそも、人を追い込んでいる要因は放置し、苦しみ、悩ませて「相談」してくださいという対策がこれまでの自死の予防施策。人を追い込む根本的な問題解決の対策はゼロに近いという事実。
交通戦争という言葉があった時、交通事故を減らすために、ガードレールを作り、歩道橋を作り、信号機や標識の設置など、具体的に事故がおきないような対策をしました。
自死の対策は、交通事故対策に例えるなら、事故を減らす対策ではなく、事故がおきた後に、病院に搬送し治療をするという対策に過ぎないのです。
事故も・自死も原因となる問題を取り除く対策と、最後のセーフティーネットであるべき医療が命を救えるかどうかが大きなカギです。
交通事故で病院に行き、悪化し死んでいく人が多いなら大問題となるでしょう。しかし原因のあるうつ的症状を発症し、精神科に行き悪化し自死に至る人が自死者の半数以上占めるのに、誰も疑問に思わず医療の改善を求めないのはなぜでしょう。
そこには、精神の病に対しての差別や偏見が存在しています。心の病は個人の問題であり、医療の問題ではないという概念が存在している気がします。また原因のあるうつ的症状は本来は改善されていくものです。さらに言えば最近トレンドの発達障害や適応障害等の障害は本人の中に障害があるのではなく、社会の中に障害があるのです
精神的病への正しい知識の普及が必要です。
日本にも、自分たちが意識しないたくさんの差別と偏見があることを自覚し、人が人を蔑むことを見てみないふりをする風潮を変えてほしいと願っています。
私には関係ない事という意識がある
死ぬはずがないという思い込みがある
人は死ねないはず、死ぬ人は特殊な人という概念がある
精神科にさえ行けば どんな悩みも何とかなるという根拠のない思い込み
自死も含めて、様々な生きづらい問題ときちんと向き合えていない社会
自死は社会のせいではなく、個人の問題として捉えている人たちがほとんど。
社会を変えるには「教育」が必要で重要です。
人を大切にし、人にやさしい社会の実現には「人材の育成」が必要です。
せっかく生まれた子ども・育った子どもを社会全体であたたかく見守り、未来を託しませんか。子どもは社会の宝物です。
子どもを大切に思う心は、年を重ねた人たちの事も大切に思う心につながるはずです。
自分を大切にし、家族を大切にし、知人友人、知り合いの事を大切に思う心を持ち続けたら、恩送りができる社会となり、心豊かな地域になると信じています。
命を守るという事は、地味で目立たず。粛々と日常の中で育むものではないでしょうか。
自死ゼロを目指して!