
〔「宅地建物取引業者による人の死に関する心理的瑕疵の取扱いに関するガイドライン」に対するパブリックコメント〕
2021年6月##日
意見書
(一社)全国自死遺族連絡会
自死遺族等の権利保護研究会
目次
第1 ガイドラインの作成にあたっての立脚点 1
1 意見書の目的 1
2 遺族の立場への配慮が必要な理由 2
3 自死に関し「心理的瑕疵」という法的評価概念が認められるべきではないこと 2
⑴ 公的なガイドラインであることを踏まえるべきこと 2
⑵ 自死を「心理的瑕疵」と評価する見解は確定した考え方ではないこと 3
⑶ 自死についての国の認識・施策に反すること 4
⑷ 小括 5
4 本ガイドライン案の検討過程に手続的瑕疵があること 5
⑴ 検討会が非公開で行われたこと 5
⑵ 審議が不十分であること 6
⑶ 検討会委員の人選に問題があること 6
5 今後、ガイドライン策定において求めること 6
第2 個別の問題点 6
1 本ガイドライン案の射程が不明瞭であること 6
2 自死を「心理的瑕疵」とする発想自体、社会的に許容されるものではないこと 7
3 賃貸借契約について告知義務の終期を一律に3年とすることは疑問であること 8
4 告知義務の終期に関し、賃貸契約と売買契約で異なる規定となった理論的根拠が不明瞭であること 8
5 建物取り壊し後は、告知義務が否定される余地があることも明示すべきこと 9
6 共用部分での自死について、告知義務の対象範囲に含めるべきではないこと 9
7 告知内容について遺族のプライバシー権への配慮が検討されていないこと 10
第1 ガイドラインの作成にあたっての立脚点
1 意見書の目的
「宅地建物取引業者による人の死に関する心理的瑕疵の取扱いに関するガイドライン(案)」(以下「本ガイドライン案」という。)は、「宅地建物取引業者が宅地建物取引業法上負うべき責務の解釈について、トラブルの未然防止の観点から、現時点において判例や取引実務に照らし、一般的に妥当と考えられる基準をとりまとめたもの」(2頁34行目)としていることからも明らかなとおり、もっぱら個々の不動産取引における当事者及び宅地建物取引業者との間のトラブルを未然に防止しようとする観点から作成されている。
しかしながら、不動産において発生した死について、最も重大な利害関係を有するのは遺族であり、遺族の立場がガイドライン策定においても考慮されなければならない。遺族の立場への配慮が全く見られない点において本ガイドライン案は、根本的な問題を抱えており、本意見書はガイドライン策定において前提にするべき不動産取引における自死の法的評価のあり方等を述べるとともに、本ガイドライン案の問題点を指摘することを目的とする。
2 遺族の立場への配慮が必要な理由
不動産において発生した死に関し、当該場所や内容について報ぜられることによって死者の遺族はプライバシーの点で極めて困難な立場に置かれることになるとともに自死に関する法的責任を追及される立場にあるのが現状である。殊に自死の場合には、本ガイドライン案が問題としている「心理的瑕疵」を理由として、自死遺族が、売主・貸主から損害賠償請求をされることが多い((一社)全国自死遺族連絡会及び自死遺族等の権利保護研究会(以下、両者を合わせて「当研究会」という。)は、裁判例が認めた数倍もの金額の損害賠償を請求され、追い詰められた遺族からの相談を多数受けてきた。)。このことを踏まえると、「宅地建物取引業者による人の死に関する心理的瑕疵の取扱い」について、自死遺族は切実かつ重大な利害関係を有するというべきである。
詳細は後述するが、本ガイドライン案が賃貸借契約について告知義務の期間を3年としている点などは、自死遺族が責任を負うべき家賃補償の損害賠償の範囲に直結する問題であるので、自死遺族の立場からはこれを看過することはできない。ガイドラインの作成にあたっては自死遺族の立場への配慮が必要不可欠である。
3 自死に関し「心理的瑕疵」という法的評価概念が認められるべきではないこと
⑴ 公的なガイドラインであることを踏まえるべきこと
ア そもそも自死が「心理的瑕疵」であると解されてきたのは、自死に対する否定的な評価が基となっている。ここでいう否定的評価とは、自死に対する迷信や偏見・差別意識である。故に当研究会は自死を「心理的瑕疵」と評価する考え方は本来認めるべきではないという立場をとる。
イ 自死に関する差別意識について、差別とは、個人の特性を無視し、所属している集団や社会的カテゴリーに基づいて、合理的に説明できないような異なった(不利益な)取り扱いをすることをいい、憲法14条で禁止されている。差別の典型例としては人種差別や性差別が挙げられるが、性別や人種といった社会的カテゴリーのみを根拠として否定的な評価が与えられ、そこでは個人が辿ってきた人生や精神活動は一切評価の対象から捨象される。差別は憲法13条が規定する個人の尊厳を害するものであり、社会的に許容されるものではない。
自死遺族も、差別を経験した事例が多数報告されている。当研究会にも、共同墓地の埋葬を拒否された、特異な戒名をつけられた、近隣住民から引っ越すように言われた、周囲に迷惑をかけたと謝罪するよう求められた、「命を粗末にした。」もしくは「親の育て方が悪かった。」など事情を知らない者から否定的な言葉をかけられた等の相談が寄せられることは少なくない。これらは、自死という死因を理由に人をカテゴライズし、その人の人生や精神活動を一切捨象して否定的な評価を行うものであり、個人の尊厳を害する点では他の差別と同様である。
ウ 当研究会は、自死を「心理的瑕疵」と評価する裁判例に対し、自死を理由とした差別であるとの批判を行ってきた。例えば、賃貸人は「気味悪がって次の借り手がつかない」(なお、心霊現象を想定して「気味が悪い」と評価するのであれば、自死以外の他の死因であれば心霊現象が発生しないことを合理的・科学的に説明することは不可能であり、自死等をことさらに「気味が悪い」と評価することに合理性は無い。)ことを根拠に損害の賠償を遺族(連帯保証人となっている者が多い。)に求めるが、その際に自死した者の人生や精神活動が考慮されることは皆無である。ここでいうところの「気味が悪い」という評価は、自死という社会的カテゴリーを根拠として与えられる否定的な評価に他ならず、自死者に対する差別の典型的な現れである。
自死の事実を心理的瑕疵として評価する裁判例は多数存在するが、これは社会が自死者に与える差別感情をあたかも社会常識であるかのように肯定するものであり、憲法により保障されるべき個人の尊厳を裁判所自身が否定し、禁止されている差別を肯定しているという意味で、深刻な人権侵害であると言わざるを得ない。
エ 本ガイドライン案は、公的に策定されるガイドラインでありながら、以上述べたような迷信や偏見・差別意識にもとづいた自死に対する「心理的瑕疵」という法的評価を安易に前提としており、社会からなくしていかなければならないはずの迷信や偏見・差別意識、ひいては自死者に対する深刻な人権侵害を肯定ないし助長することになりかねない。
⑵ 自死を「心理的瑕疵」と評価する見解は確定した考え方ではないこと
ア 建物内で自死や他殺があった場合に、これを「嫌悪すべき歴史的背景」と捉えて、心理的瑕疵の存在を認めるかどうかについては、学説上、これを疑問視し否定する見解も有力に主張されている。
たとえば、横山美夏氏(民法、京都大学教授)は、「不慮の死であれ自殺であれ、個人がそれぞれの生を生き抜いた結果としての死につき、特定の態様の死に対する嫌悪を裁判所が正当とすることは、それぞれの生が等しく価値を有するとする、個人の尊重(憲法12条・13条)ないし個人の尊厳(民法2条、憲法24条)に違反しないのかという疑問が生じる」、「民法2条により、民法の解釈にあたっては、生の終着点である死はその態様いかんにかかわらず等価値に扱われるべきであり、また、不必要な死は極力回避されなければならないが、生じてしまった死それ自体を否定的に評価すべきではないといえる。…自殺の事実に対する消極的評価を前提として、通常一般人が『住み心地の良さ』を欠くと感じるときは自殺の事実が瑕疵となるとする裁判例は、民法2条の趣旨に反する。同条の趣旨からすれば、たとえ通常一般人がそのように感じるとしても、まさに規範的な意味でその合理性が否定されるべきではないか。」とする。そして「民法2条により、売主は、相手方がその意思決定に際して個人の尊厳に反する事項を勘案できるよう助力する義務は負わない。したがって、売主は事故の事実につき告知義務を負わないというべきである。」と結論づけている(横山美夏「個人の尊厳と社会通念―事故物件に関する売主の瑕疵担保責任を素材として」〔『法律時報』85巻5号、2013年5月〕)。
イ そもそも「瑕疵」は物理的瑕疵を意味し、心理的なものにまで拡張するべきではないとする有力説もある(我妻栄『債権各論・中巻Ⅰ』、広中俊雄『債権各論講義』)。
ウ また、裁判例をみても、不動産競売物件につき自死の事実が判明した事例で、結果として交換価値の減少を肯定したものの、自死と個人の尊厳との関係について「およそ個人の尊厳は死においても尊ばれなければならず、その意味における死に対する尊厳さは自殺かそれ以外の態様の死かによって差等を設けられるべきいわれはなく、また自殺という事実に対する評価は信条などの主観的なものによって左右されるところが大であって、自殺があったそのことが当該物件にとって一般的に嫌悪すべき歴史的背景であるとか、自殺によって交換価値が損なわれるものであるとかいうことは、とうてい客観的な法的価値判断というに値するものではない。」と明確に述べている例もある(福岡地決平成2年10月2日判タ737号239頁〕)。
エ 自死のあった物件について「心理的瑕疵」ないし「嫌悪すべき歴史的背景」を安易に認める現状への疑問や批判を述べる学説や裁判例が存在するにもかかわらず、本ガイドライン案はこれらについて一切言及していない。自死を「心理的瑕疵」と評価することの合理性・妥当性について疑義があるにもかかわらず、本ガイドライン案は、「心理的瑕疵」という評価の合理性・妥当性を検証せず、不動産取引における慣行等に依拠して「心理的瑕疵」という評価を当然の前提としたうえで議論を展開している。この点は後述するような、本ガイドラインの検討過程における手続上の欠陥にも起因するとも思われる。
⑶ 自死についての国の認識・施策に反すること
ア 国は、従前、自死について、その結果に対する責任や損失の負担を、自死した者やその遺族にのみ負わせるべきではないという姿勢を明確にしてきた。すなわち、自殺対策基本法第1条は「誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指して、これに対処していくことが重要な課題となっている」ことをその立法趣旨として明記する。つまり、同法は、現状の日本社会では「追い込まれた末の自死」があることを認めているのである。
同法に基づき策定された自殺対策大綱も、「自殺総合対策の基本理念」で「自殺は、その多くが追い込まれた末の死である。自殺の背景には、精神保健上の問題だけでなく、過労、生活困窮、育児や介護疲れ、いじめや孤立などの様々な社会的要因があることが知られている」との認識を示す。自死について、社会の側に大きな責任があることを自認しているといえる。
イ また、自殺対策基本法第2条第2項は「自殺対策は、自殺が個人的な問題としてのみ捉えられるべきものではなく、その背景に様々な社会的な要因があることを踏まえ、社会的な取組として実施されなければならない」とする。また、前記自殺対策大綱は「自殺総合対策の基本方針」で「経済・生活問題、健康問題、家庭問題等自殺の背景・原因となる様々な要因のうち、失業、倒産、多重債務、長時間労働等の社会的要因については、制度、慣行の見直しや相談・支援体制の整備という社会的な取組により解決が可能である」とする。
ウ ところが、本ガイドライン案は、その1(1)①という正に冒頭で、無批判に過去の裁判例を引いて、嫌悪すべき歴史的背景がある場合には心理的瑕疵があるとし、「嫌悪すべき歴史的背景」に自死を含める。これは自死における社会的な要因を一切顧慮しない姿勢であり、自殺対策基本法や自殺対策大綱に示された国の認識、基本理念及び取組みの方針等に違背するものといわざるを得ない。
エ 殊に、本ガイドライン案は、心理的瑕疵の成立を安易に認めたうえで、宅地建物取引業者に自死の告知義務を課す。当研究会は、本ガイドライン案が自死遺族にのみ経済的な負担を強いる現状を追認するものであり、精神的にも社会的にも追い込まれている自死遺族に重ねて打撃を与え、さらに追い込んでいくことになることを強く懸念する。
⑷ 小括
ガイドライン策定にあたっては、個人の尊厳を基調とする日本国憲法、法令の趣旨目的、自死に至る背景、自死遺族をめぐる境遇等を踏まえて、自死をどのようにとらえるべきかという議論を行わなければならず、このような議論を抜きにしてガイドライン策定を進めることは厳に戒められなければならない。このような議論もなしに、自死が「心理的瑕疵」であることを前提とするガイドラインを作成することに、当研究会は強く反対する。
4 本ガイドライン案の検討過程に手続的瑕疵があること
本ガイドライン案は令和2年2月にスタートした「不動産取引における心理的瑕疵に関する検討会」における検討を経て、成案を得ている。当研究会は、この検討会の審議過程には以下のとおりの手続的瑕疵があると考える。殊に、後記⑵及び同⑶は、前記3⑷で述べた「人の死」に対する根本的考察の不在ないしは不十分さにつながったというべきである。
⑴ 検討会が非公開で行われたこと
不動産取引における自死の問題は、不動産取引の当事者になり得る者ならば誰にとっても関係のある事柄であり、極めて公共性の高いテーマである。ところが検討会の会議は傍聴が許されず、内容はわずかに発言者不明の議事概要によって確認できるだけである。公共性の高いテーマであるにもかかわらず、今回の意見募集まで、事実上、市民は締め出されていた。
⑵ 審議が不十分であること
検討会は合計6回開かれただけに過ぎない。第6回は事実上、本案を承認する会議であったから、実質的にはわずか5回の会議で重要な内容が決せられたことになる。5回の会議では、審議が十分尽くされなかった可能性が高い。
⑶ 検討会委員の人選に問題があること
検討委員会委員の肩書を見ると、弁護士2名、全国住宅産業協会委員、不動産流通経営協会事務局次長、全国宅地建物取引業協会連合会役員、全日本不動産協会理事、消費者団体研究員、大学不動産学部長、不動産適正取引推進機構研究員である。ほとんどが不動産取引業界または不動産業界の関係者であり、自死遺族は委員に選ばれていない。
不動産取引業者や関係者の利害が先立ち、自死遺族の苦しみや痛みへの配慮が欠けているといわざるをえない。
5 今後、ガイドライン策定において求めること
前記4で述べた検討会の第6回の議事要旨に記載された「今後、想定外の意見も含めて、パブリックコメントで出た意見を受け止めて、検討会としてもガイドラインのブラッシュアップに取り組んでいきたい」という意見は、パブリックコメントという手続の意義を確認するものであり、看過してはならない。本意見書を受け止め、ブラッシュアップではなく、本ガイドライン案自体の見直しに取り組んでいただきたい。
仮に「心理的瑕疵」という考え方を完全には否定できないとしても、「心理的瑕疵」という法的評価概念に基づき発生しうる損害の範囲は限定的に捉えられなければならない。また認められるべき損害をすべて自死遺族のみに負担させるべきではないし、当該物件をめぐる関係者(売主・貸主や宅地建物取引業者だけでなく、買主・借主も含めて)間で公平に負担を分担するという観点も必要である。
なお、本ガイドライン案が「自殺」でなく「自死」という用語を用いていることは、関係機関にたびたび「自死」を用いるよう求めてきた当研究会としては、評価したい。
第2 個別の問題点
1 本ガイドライン案の射程が不明瞭であること
本ガイドライン案は「不動産において過去に人の死が生じた場合において、当該不動産の取引に際して宅地建物取引業者がとるべき対応に関し、宅地建物取引業者が宅地建物取引業法上負うべき責務の解釈について、学識経験者による議論を行い、その結果を本件ガイドラインとして取りまとめたものである」(2頁10行目)と述べ、宅地建物取引業者が参照することを前提としているようである。
ただ、他方で、本ガイドライン案は「本ガイドラインは、あくまで宅地建物取引業者が果たすべき責務について整理したものであるが、宅地建物取引業者のみならず、消費者、賃貸事業者等の取引当事者の判断においても参考にされ、トラブルの未然防止につながることが期待される」(9頁16行目)とも述べており、賃貸借契約や売買契約の当事者間ないしはその相続人間の法律関係においても参照されることを想定しているようでもある。
遺族が懸念するのは、本ガイドライン案が、賃貸人からの遺族に対する損害賠償請求額の算定根拠として用いられることである。自死を「心理的瑕疵」として扱うこと自体が差別として憲法に違反することに加え、本ガイドライン案の策定過程に遺族が全く関与していないにもかかわらず(第1・4参照)、仮に本ガイドライン案に基づき算定された金員の支払義務を負うとすれば、その結論は不当としか言いようがない。
本ガイドライン案の「消費者、賃貸事業者等の取引当事者の判断」とは何を指すのかを明らかにすべきである。そして、賃貸借契約や売買契約の当事者間ないしはその相続人間での損害賠償請求額の算定についてまでは射程が及ぶものではないことを明記すべきである。
2 自死を「心理的瑕疵」とする発想自体、社会的に許容されるものではないこと
本ガイドライン案は、自死等が生じた場合には、「買主・借主が契約を締結するか否かの判断に重要な影響を及ぼす可能性があるものと考えられるため、原則として、これを告げるものとする。」(4頁26行目)と述べる。本ガイドライン案は、自死について宅地建物取引業法にもとづき宅地建物取引業者告知義務を負うとするが、その前提には、自死について「心理的瑕疵」に該当するとの法的評価があると思われる。本ガイドライン案が引用している裁判例も、自死について「心理的瑕疵」と評価する。
しかし、自死を「心理的瑕疵」と評価すること自体が差別として憲法に違反し、社会的に許容されるものではいことは第1・3において既述したとおりである。また、住宅の鬼門にあたる方角にトイレを設置したことを「心理的瑕疵」にあたるとした裁判例(名古屋地判昭和54年6月22日判タ397号102頁。なお、上記判決については、「20世紀後半に、国家機関である裁判所が鬼門にトイレを設置しないよう法的義務を課している事実は、滑稽」との批判がある(横山美夏「鬼門のトイレと裁判所」。)をみても分かるように、「心理的瑕疵」の概念自体、時代や価値観の変化により変動するものである。加えて、欧米においては建物内での自死を「心理的瑕疵」としない地域が圧倒的多数であることからすれば、地域によっても「心理的瑕疵」の評価は変動する。とすれば、自死を「心理的瑕疵」とする発想自体、少なくとも今日の社会において本当に社会通念として共有されているものといえるかは疑問であり、ガイドライン策定を通じ自死が「心理的瑕疵」にあたるとの評価を未来にわたり確定させることは尚更許容されるべきではない。本ガイドライン案が、自死について「心理的瑕疵」と評価することを不可欠の論理的前提とするのであれば、そのようなガイドラインの策定自体認められるものではないし、論理的前提としないのであればその旨を明記すべきである。
3 賃貸借契約について告知義務の終期を一律に3年とすることは疑問であること
本ガイドライン案は、裁判例等を引用しつつ、「自死」などの事案が発生している場合には、「特段の事情」がない限り、これを認識している宅地建物取引業者が媒介を行う際には、「事案の発生時期、場所及び死因(不明である場合はその旨)」について、「自死」の発生から「概ね3年間は、借主に対してこれを告げるものとする。」(7頁33行目)と述べる。
しかし、京都地判平成24年3月7日(判例集未登載)は、賃貸物件中で自死が生じた事案について、告知の期間を1年としている。また、本ガイドライン案が引用する東京地判平成19年8月10日(ウェストロージャパン登載)は、次の賃借人が退去した後の、次の賃借人については告知義務を否定し、損害にあたらないとする。さらに、東京地裁平成22年9月2日判決は1年間の賃料全額と2年間の賃料半額の合計額から中間利息を控除した額のみを損害として肯定した。このように、裁判例は、損害賠償額の算定にあたっては様々な事情の総合考慮により賃貸不能期間を算定している。
本ガイドライン案が述べるところの「概ね3年間」は告知義務の終期を指すのか、損害額算定における賃貸不能期間を指すのか、ガイドライン上は明示されていない。当研究会としては、「概ね3年間」の文言を根拠として、遺族が賃貸人から3年間の賃料全額の損害賠償が請求され、自死直後の混乱状況のもと、法的支援を得る余裕もないままに支払いに応じざるをえない状況に追い込まれる可能性を、強く懸念する。判例上、告知義務の期間と家賃補償の期間とが連動して捉えられていることが多いので、特にこの点を危惧するものである。そして、本ガイドライン案の「概ね3年間」が損害額算定における賃貸不能期間を指すものではないというのであれば、その旨を明示すべきである。
4 告知義務の終期に関し、賃貸契約と売買契約で異なる規定となった理論的根拠が不明瞭であること
本ガイドライン案は、東京地判平成19年8月10日、東京地判平成22年9月2日を引用する(7頁27行目)。いずれも賃貸契約に関するものではあるが、住み心地の良さへの影響は時間の経過とともに希薄化されること(以下「時間希釈」という。)を前提に、賃貸不能期間が1年、賃料に影響が出る期間が2年あるとの判断を行っている。
他方で、本ガイドライン案は「売買契約の場合、事案の発生後、当該事案の存在を告げるべき範囲について、一定の 考え方を整理するうえで参照すべき判例や取引実務等が、現時点においては十分に蓄積されていない。このような状況を鑑み、当面の間、過去に前記3.(1)に掲げる事案が発生している場合には、宅地建物取引業者は、上記①に掲げる事項について、前記4.の調査を通じて判明した範囲で 、買主に対してこれを告げるものとする」と述べる(8頁17行目以下)。
すなわち、本ガイドライン案では、賃貸契約については告知義務の終期を「概ね3年間」と規定する一方で、売買契約については告知義務の終期を規定していない。本ガイドライン案の「調査を通じて判明した範囲で」との文言を形式的に解釈する限り、自死発生後に建物および土地を売却する場合には、宅地建物取引業者は永続的に告知義務を負うということになる。また、本ガイドライン案の「宅地建物取引業者のみならず、消費者、賃貸事業者等の取引当事者の判断においても参考にされ、トラブルの未然防止につながることが期待される。」(9頁17行目)との文言からすれば、取引当事者である売主も同様に永続的に告知義務を負うこととなる。
しかし、裁判例が言うように、自死が住み心地の良さへの影響を与えるとしても、上記影響は時間の経過とともに希薄化されるという論理は、賃貸借契約も売買契約も異なるものではなく、売買において時間希釈を考慮要素とした裁判例は多数存在する。たとえば、東京地判平成15年9月19日(判例秘書登載)は、マンションの売買の事案について、当該物件内およびその周辺で約3年2か月前に殺人事件等があった事実について、「居住用の建物内あるいはその近傍で殺人事件等があったとしても,時が経つにつれて人の記憶が薄れることなどに伴い,それを忌まわしいと感じる度合も徐々に希薄になっていくものと考えられるところ,本件事件と本件売買契約との間の約3年2か月という時間は,その意味では無視することのできない時間の経過であるといわなければならない」と述べ、時間希釈を根拠に瑕疵担保責任を否定している。
また、実際に持ち家において家族が自死した場合、長期間を経ても、所有者は告知しない限り永続的に不動産を売却できないという結論は、明らかに不当である。
したがって、本ガイドライン案において、売買契約についても、時間希釈は当然に告知期間の考慮要素となることを、明記すべきである。
5 建物取り壊し後は、告知義務が否定される余地があることも明示すべきこと
裁判例においては、時間希釈に加え、自死のあった建物取り壊しの有無も瑕疵担保責任の有無を判断するにあたり重要な考慮要素とされている。大阪高判昭和37年6月21日(判時309号15頁)は、既に自死のあった座敷蔵が取り壊されていることを理由に瑕疵担保責任を否定した。東京地判平成19年7月5日(判例秘書登載)は、自殺があった共同住宅が既に取り壊されていることを理由の一つに挙げ、瑕疵担保責任を否定した。
これらの裁判例からすれば、自死のあった建物取り壊し後を考慮要素の一つとして、告知義務が否定されることも十分考えられる。本ガイドライン案では、売買契約について告知義務の終期を規定していないが、4 で述べた時間希釈や建物取り壊しの有無等の総合考慮により告知義務の終期が判断される旨は明示すべきであり、家族が自宅で自死した場合、長期間を経ても当該土地建物所有者は告知しない限り永久に不動産を売却できないかのような誤解を与える表現は、厳に慎むべきである。
6 共用部分での自死について、告知義務の対象範囲に含めるべきではないこと
本ガイドライン案は、「集合住宅の取引においては、買主・借主が居住の用に供する専有部分・貸室に加え、買主・借主が日常生活において通常使用する必要があり、集合住宅内の当該箇所において事案が生じていた場合において買主・借主の住み心地の良さに影響を与えると考えられる部分をも対象に含むものとする 。」(4頁6行目)と述べる。すなわち、共用の玄関・エレベーター・廊下・階段のうち、買主・借主が日常生活において通常使用すると考えられる部分については告知義務の対象となる(4頁注6)。
上記規定によれば、とくに、告知義務の終期が定められていない売買事案において、遺族が極めて不安定な立場に置かれることとなる。例えば、マンションの玄関で自死した事案においては、全員の入居者が玄関を日常生活において通常利用すると思われるところ、理論的には、永続的に、入居者が転居などにより居室を売却する度に、遺族が価値下落分について損害賠償請求を受け続ける結果となりかねない。このような結果は、「国及び地方公共団体は、自殺又は自殺未遂が自殺者又は自殺未遂者の親族等に及ぼす深刻な心理的影響が緩和されるよう、当該親族等への適切な支援を行うために必要な施策を講ずるものとする」と定める自殺対策基本法第21条の趣旨に明らかに反する。
共用部分での自死に関する裁判例の蓄積は少なく、これについて「心理的瑕疵」と評価すべきか否かの検討も未だ十分に尽くされたとはいえないのが現状である。本ガイドライン案が、共用部分での自死について「心理的瑕疵」にあたることを前提として告知義務を規定したというのであれば時期尚早であるし、「心理的瑕疵」にあたることを前提としないのであればその旨を明記すべきである。
7 告知内容について遺族のプライバシー権への配慮が検討されていないこと
本ガイドライン案は、「前記2.(2)の対象となる不動産において、過去に他殺、自死、事故死(後記(2)に該当する該当するものを除く。)が生じた場合には、買主・借主が契約を締結するか否かの判断に重要な影響を及ぼす可能性があるものと考えられるため、原則として、これを告げるものとする。」と述べるが、かかる告知は遺族のプライバシー権を侵害するおそれがある。
プライバシー権とは、「私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利」と定義されている(東京地判昭和39年9月28日判時385号12頁「宴のあと」事件)。プライバシー該当性について、東京地判昭和29年9月28日判タ385号12頁は、私事性、秘匿性、非公知性の3つを要件としている。
そして、同居していた家族が自死したこと及び自死の方法については家庭内における高度の私的事項であり(私事性)、一般人の感受性を基準として公開を欲しない事柄であり(秘匿性)、実際、多くの場合遺族は家族が自死したことを周囲には固く秘していることが多く、その事実が公知になることはほとんどない(非公知性)。とすれば、同居していた家族が自死したこと及び自死の方法についてはプライバシー情報に該当するため、告知に際しては自死者や遺族が同定されることのないよう十分に配慮しつつ行われることが必要である。
本ガイドライン案においては、自死の事実がプライバシー情報である旨の指摘が無く、告知の方法や内容次第では遺族のプライバシー権を侵害する可能性があることを検討した形跡が無い。宅地建物取引業者による、遺族のプライバシー権を侵害する態様での告知が横行する可能性は否定できず、遺族のプライバシー権に配慮するよう注意喚起する趣旨の規定が必要である。
以上