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無責任な世間の目

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世間という目を気にして
   生きている人は多い
大多数は世間の目を気にしている
 でも
世間ほど無責任なものはない

「エール」という朝ドラ
 戦争中は戦争に反対する事を戦犯とののしり
   戦争に協力した人をほめたたえ
戦後は
  戦争に協力した人たちをののしり
    村八分のようにした
 
私は養女で一人娘
  大きな農家の跡取りだった
その跡取りという責任を放棄し
  叔父に跡取りの権利を譲り結婚
 結婚した時もその後も
   親戚も含めて実家のある世間は
    今に金や財産が惜しくなる
     と散々言った
でも
 私は両親が亡くなった時、遺産の放棄をして
   義兄となった叔父とは もめたことはない

 結婚後も
   お金がなければ働いて稼ぐという思いを貫き
    働いてきた
 公務員宿舎の奥様たちから
   パートで働くなんて・・・
 と散々陰口をたたかれた
   その時も思った
生活が苦しいといっても誰も1円だってめぐんではくれない
  世間の目を気にして 働かず
    借金して 見栄を張って
 奥様達とのランチをしても
     無責任な世間の公務員宿舎の奥様達は
   すごわね~などとは言わない
 また陰口を言うだけ
  
自死も同じ
  遺族に不幸が続くと
「自死した家だから」という
 普通に暮らしているだけで
 「亡くなった人が守ってくれているんですね」という
無責任なもの
  それが世間という目

みんながこうしているから 私も・・・・という考えは小さいころからしたことがあまりない

それは
 私が養女で
  世間の人たちが世話になっている
私の育ての親たちのいるところでは
世間の人たちは私を誉め
 両親がいないところでは
私に聞こえるように「血のつながりは 濃いよね 似てきたね…ほんとの親に」
    「どんなに 一生懸命育てても、血がつながっていない子供はね」
   と
いつも 言っていた世間の人たち

 友達優先でランクを下げて 高校に入った私の事を
 世間は
 「あそこの娘は  育ての親がわがままに育てたから
    勉強もできないのに  やっと あの高校に入れてもらった」
「○○さんのところの娘さんは
   勉強ができてもっとランクの上の高校に行けるのに 親孝行でなるべく近い高校に入ったいい娘だね」
と・・・・
同じ高校に入ったのに
  そういわれていた
ふざけんな!とその時も思った
 そのほめたたえられた娘は
  そこの高校が精いっぱいの成績だったことは
 中学の同級生の私がよく知っている
しかし
真実なんて何にもわからないのに
  ほんとのように 世間はうわさを広げていた

男女関係なく友人がたくさんいた私は
   みだらな交友関係の多い  どうにもならない不良といわれた
 普通に勉強や部活を楽しんでいただけ
  服装も普通
  それでも
世間は 男と歩いているだけで
   みだらと・・・・

よくもまぁ こんなにも無責任なことが 次から次へと
  話が広がるものだと・・・・

狭い地域の中で感じて生きてきた

   だから
自然と 自分で価値を決め自分で判断をして
  生きてきた
責任ももちろん自分にあると・・・

うまくいくときも失敗も
  自分が選んだ生き方
 責任は自分

息子の自死
  世間の目はどうでもよかった
 私が…私たち家族が健一の死が悲しいだけ
   苦しいだけ
なくなり方が自死でも
病気でも事故でも
 とにかく 死んだという事実だけで いっぱいだった

世間がどう思おうが関係ない
  世間は息子の死を悲しんではくれないから
 ずっと悲しいのは 家族だけだと知っていたから

  どうせ
また いいかげんな噂を流して
   すぐ 忘れてしまうだけだから‥世間は・と

だから
 自死を隠すという選択は 一ミリもなかった

息子の自死を
蔑む知人がいたら 親戚がいたら
   付き合わないだけだから・・・

 有名な人だから
  大学の教授だから
   医師だから
 すべてが正しいとは思わない

自分の価値観で判断し
  違うと思うことは 私は違うと思うと意見を言うことにしている

 行政に対しても同じ

自死の対策についても
  遺族支援についても
 自分の意見を言ってきた

 世間という目を気にして
   生きている人が日本人は多いが

  私は大局に身を任せ
  昨日まで世間が白というから 白
  今日は世間が黒というから黒
 という のは
    無責任の中で生きている気がしてならない
自分で考え
 自分で判断し 自分で決める

 責任も自分にある

そんな自分で 生きていきたい
 
亡くなった息子も
警察官の二次試験の面接のとき
  背広をきなかった・・ひとりだけ

そんな息子を誇りに思っている
  
 
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自死の原因の1位「健康問題」という印象操作

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自死の原因で「健康問題」というのがあるが
  身体的な病気が原因という印象があるが
実は違う
健康問題のほとんどは「精神科の治療を受けている人」
「精神科に通院等をしている人」の自死が原因では最も多い
中高年では「健康問題」(精神医療)が5割
全体の6割が「健康問題」(精神医療)
15歳から39歳の死因の1位が自死
先進国では日本だけ
死因の1位が自死という国は先進国では日本のみ

震災関連自死という認定は基準が変
なので
 正しい人数とは言えないが
福島県は相変わらず多い
 それは当然のこと
岩手と宮城は震災は2011年3月で終わったが
 福島は原発の問題が今も続き、震災が続いているのと同じ
 そんなわかりきったことも
    具体的な解決をしないのだから
    関連自死が減らなくても当然の事

統計は対策に役立てるためにあるのだが
  実際は統計は出すだけのもの
      発表しておしまい
 10代の自死が
   200~300人を超える
多くは学校問題
   しかし いじめや体罰指導での自死と認定されるケースは少ない
 仙台市のいじめは全国1位
不登校も・・・
 しかし いじめでの不登校はゼロという認識
  実際電話相談をすると
   いじめでの不登校は多い
いじめの件数が全国1位
   いじめの不登校がないとしたら
学校に登校していじめられている子供が全国1位
   年々いじめの件数が増えている仙台市
    しかし
 政令指定都市で仙台市が特別丁寧な調査をしているから
いじめの件数が多いだけという
他の市は丁寧にやっていない・・・といっているようなもの
 丁寧でもなんでも いじめが多いんだから
    いじめを減らそうという意識はない
 
コロナの影響で間接的な影響を受けて
   亡くなっている人は多い
大学も
 リモート
朝から一人で部屋にこもり
  リモートで授業
宿題もリモートの分 たくさん出るという
 部屋に一人でいて パソコンの画面を見ながら授業を受け
 終わったら
また一人でパソコンに向かい
   宿題をやる
ほぼ1日中 部屋にいてパソコンに向かっている
 誰とも話さず
  真面目な人ほど、一人で部屋にいて授業を受ける
 アルバイトも首
   ひたすら節約して
      家にいるだけの生活
  いつ 収まるかわからない
不安が募る
   精神科医に診てもらう
      ・・・・・・・・・死にたくなる

就職をしたが、パワハラを受けている
    ブラックのようだ
でも
コロナのこの時期に仕事を辞めたら次がない
 我慢 我慢
我慢をするしかないのがわかるから
   嫌な奴らは
パワハラを続ける
  限界が来る

   大学を出て就職が決まったがコロナで解雇
お産をしたが
 県外の親は手伝いに来れない
   病院も早くに追い出される
     子育ての教室も お休み
一人で奮闘
    産後うつといわれて
  精神薬を飲む……死にたくなる

女性はおしゃべりができるから自死が少ないといわれていた
  だが
    会ってのおしゃべりをする機会は減った
    気晴らしができない
落ち込む
精神薬を飲む・・死にたくなる

健康問題という自死の原因の1位は
     ・・・・・・・・・・
精神薬を飲んでいた人(過去も含めて)
    これは国の自死の有識者会議でも確認済み

なぜ自死遺族の声は自死の対策に反映されないのか、遺族支援も含めて。

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車いすの生活を余儀なくされている人達の声は
 当たり前のように 国や支援者に届くようになっている
  支援者や支援団体が当事者を抜きに支援対策を決めることはない

では精神障がい者の場合はどうだろう
   精神障害者が精神障害の支援対策の委員会や会議に参画している場面は見たことがない・・が
  たぶん  精神障害者のための対策に当事者の声は反映されていないことでしょう。

自死遺族のための対策や自死の対策に
なぜ自死遺族の声が届かないのか

 それは自死遺族は精神障がい者と同じように扱われているからです
    精神に障害があるということです

 身体的障害と精神的障害
   そこにはあきらかに 差別があります

   身体的障害の場合は国会議員にもなりますが
     精神障害の人は国会議員に推薦もされません

 自死の対策に
  自死に一番近い遺族の声が反映されないのは
     自死遺族は精神障がい者に近い・・・いや精神障がい者と同じに思われているからです

 だから
自死遺族支援の窓口は精神保健福祉センターや保健所などが多く
  感染症課が窓口の行政もある
  精神保健福祉センターなどが主催の遺族の集いは
     保健師や精神科医が中心となり
   遺族支援団体の人たちが講師で招かれたり
    特別な研修が必要だという事で、自死遺族支援の特別研修が行われてきたのです
  自助グループさえも認められなかったのです

   頭のおかしな遺族が集まっているとしか見えなかったのです
    
  また精神科医が自死の対策を語るとき
   その視点の先は患者
    それも 長く精神薬を飲ませている患者からの情報
 なぜそんなときだけ 患者の気持ちを対策に反映させるのだろう
   治せていないのに
     難病でもない限り 治すのが医師
  
しかも 債務で悩んでも薬
   離婚で悩んでも薬
  残業で悩んでも薬
    暴力で悩んでも薬
いじめで悩んでも薬
   知能が遅れても薬
       パワハラも薬
  育児に悩んでも薬
     恋人に振られても薬
  大学の落ちても薬
    就職に落ちても薬
     
 具体的解決はしない

   できない
そうやって
  患者が苦しい、死にたいと訴えても
     薬を増やすだけ
悪化していっても 薬を増やすだけ

そうして普通の人が 本当に精神を患っていく

 もともとの  真の精神の病の人は少ない
  急激に増えることはない
精神病は伝染病や感染病ではないのですから

  話がそれてしまったが
    自死遺族もその罠にはめようとしている

  普通に生きてきた人たちを追い込む要因を解決しないで
     どうやって 自死を減らすのでしょう

 人の心を傷つける様々な要因を取り除く対策をしてほしい

   自死遺族も
生まれつき 自死遺族ではない

自死遺族という人種でもない

普通の人
ごくごく普通の人

特殊な人のような扱いをしないでほしい

   自死遺族支援についてだけでも
      当事者の声を反映させてほしい
支援者は当事者から学んでほしい

  

かなしく(愛しく)ていいんです。悲しみを否定しないで!

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自死で子供を亡くした遺族の相談に
「お母さん。悲しんではなりません。自分を責めてもいけません。それが生き残った者の責務だからです。」と
人生相談という新聞面で、答えた著名な方。
んんんんんん・・・・・・・
   と考えてしまった
このお母さんは、素晴らしい答えをいただいたと感激のコメントをSNSに・・・
いい言葉も書いてある
「彼を二度死なせてはならない。あなたの記憶の「光」の中で、生き続けさせてください。あなた自身もまた、「光」のなかで。

自分の周りでも何人もの近しい人たちが…と書いてあるが
  家族の死ではない

悲しんでいいんですよ
悲しいんだから
 泣いていいんですよ
 涙があふれるんだから

自分を責めてもいいんですよ
  それが愛だから
自責の念につぶれなければ

 子供が死んで
 悲しい気持ちはなく
   悪いとも思っていない
そんな親がいるでしょうか
  
この著名な人は 言葉にならない悲しみを味わったことがない人
   そう思います
愛するからこそ
 悲しみが生まれる

愛する気持ちがなくなったら
 悲しみもなくなるでしょう

岡知史先生の
 悲しみは愛
    という言葉は  愛しい思いでいっぱいの遺族にはスーッと心に入る

著名な人だから
  なんでも素晴らしいと思うのは
日本人の悪い癖

 そもそもこの著名な人は
    心に関しては普通の人

芸術家や社会活動家小説家が
   どんなに有名な人でも
 遺族の悲しみの相談に乗れるほど
    理解はない

相談を受ける人が
 どんな人なのか・・・を知って相談することが
     大切だと思っている

このお母さんが
心の底から 素晴らしいと思っているとしたら
  それはそれで
  すごいなぁ~と思う
人はそれぞれだから  何も言うことはない・・が

子供が自死で逝き
悲しまないで…自責の念は捨てて生きられるのでしょうか

わたしにはできない

15年間

一時も 悲しみが消えることはない
  体の一部と化している
取り除くことはできない
取り除いてほしくもない

 息子を今も  愛している

後悔もしている
  常に懺悔の気持ちがある
申し訳ないと思って生きている

   でも

世間に出れば
  元気で明るい・・・はず

愛しい (かなしい()・・・です
 ずっと・・・・いままでも これからも


子供を亡くしていた西田幾多郎(哲学者)が子供を亡くした友人に書いた文書

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上智大学の岡知史先生の書いた文章から


西田幾多郎といえば、日本の最高峰の哲学者とされている偉人である。その西田は、幼い2人の我が子を同じ年に病いで亡くしたとき、同じく子を亡くした友人に向けて以下のように書いた。長くなるが、心を打つ名文であるので引用したい。

親の愛は実に純粋である、その間一毫(いちごう)も利害得失の念を挟む余地はない。ただ亡児の俤(おもかげ)を思い出(い)ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい . . . 人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡(すべ)ての傷を癒やすというのは自然の恵(めぐみ)であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵(きず)や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の庇は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語があった。今まことにこの語が思い合されるのである。折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藷(いしゃ)である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。

子供を亡くした親の思いは、若者の自死を防ぐ

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全国自死遺族連絡会のホームページに掲載している
 遺族の声
これを読んだ人が
  「生きよう」と思ってくれた

そんな思いを  メールで送ってくれた人がいた

 「生きて」と願うという全国自死遺族連絡会の目標に掲げたことが実現している

自死がテーマのシンポジウムも講演会もフォーラムも
 誰でもが参加できる会の目的の一つは
    参加した人が 一人でも
 「生きよう」
   「生きてみよう」
     と思ってくれること・・・

  だから
       歌や踊りや落語などは やらない

  自死という問題は重たいから
 歌や踊りをいれて
     楽な気持にならないといけない・・・とかで
   楽しい雰囲気を取り入れる団体や機関が多いが

 一緒にやるものではないと思っている

歌や踊りはそれはそれでやったらいい

自死の問題と一緒には
   できない

  なぜなら

苦しくてくるしくて  どうにもならない人も参加するかもしれない
私自身が
   息子を亡くして
自死や精神・・メンタルといった
  シンポジウムや講演会にすがる思いで参加したことがあるから

これまで数多くのシンポジウムやフォーラム講演会を開催してきたが
  ほとんどの会合に
     自死という問題に直面している人の参加がある

   参加して生きようと思いました‥生きていいんだと思いましたと言われたとき
    開催した意味を感じます

 どんな人たちが参加するのか・・・・・
    それを想いながら  内容を決める・・・・・・・


9月の日本・ポストベンション・カンファレンスは
全大会は私が内容を決めたけど
分科会は
 担当団体にお任せをした

ほとんどは 主催側の意に沿った内容だった

ひとつだけ
  本当に心から申し訳なく反省している分科会がある

そもそも その団体については
   自死遺族支援という活動から手を引いてもらいたいと
  ずっと思っていたが
その連合のトップが
すばらしい人格者で 尊敬できる人なので
  外すことができず
   まぁまぁ なんとかなるか・・・と思ったのが 甘かった

今後、二度と 一緒にやることはないと思う

9月を迎えるまでのやり取りでも
  偉そうで
  分科会の依頼をするんじゃなかったと思った・・・が
時すでに遅し
いざ  分科会
   その内容
講師がボランティアのスーパーバイザーらしく
   チョー偉そう
  自死遺族が参加していることを知りながら
  自死遺族の思いそのものを侮辱

死に方を聞いたり
死後の説明をしたり
   研究のためと言ったり

こんな人に教えられているボランティアの人たちだから
  偉そうで
    遺族をさげすみ
        小ばかにしているんだ・・・と
   納得

  連盟の理事長に報告はする

    改善を要望する予定

  参加した遺族が吐き気がし
   体が震えるほどの嫌悪感でいっぱいで
  日にちが過ぎても
      消えることのない傷となっているのが
許されない
自死遺族支援の支援者のスーパーバイザー
   と 自負するなら
 自死遺族の抗議も真摯に受け止めてもらいたい

 しかし
この団体よりもひどい団体もある

   自死遺族が自死遺族のために
      立ってほしい
と願う

  わかちあいは  自死遺族同士だから成立する
    自死遺族以外の人がいる空間では
   分かち合いにはならない
ミーティングや
カウンセリング は できる が
分かち合いはできない

  自死遺族と悲しみのない幸せな人で
     どうやって
   悲しみや苦しみを 分かち合えるのだろうか

 自死遺族の悲しみや苦しみを
    幸せな支援者が聞いてくれて
        お辛いですね・・・そうなんですね
       つらかったですね
      泣くといいですよ…涙は大切です
    そんなことが・・・
       悲しいですね…頑張ってこられたんですね
   ご自分をあまり責めないように・・・
       とか
いわれ
    自死遺族は 支援者の何を聞いてあげるのでしょうか

   幸せな話をされても仕方がない

    一方的に 自分の話を聞いてもらう

 それは
 分かち合いではない

分かち合いとは
 お互いに同じ悲しみ 同じ苦しみを
 聞き 聞かれ  話し 話され
  相互扶助の関係
共通する同じ思いがそこに存在してこそのわかちあい

例えば
 酒好きの人と酒好きが お互いに酒の話をして
   わかちあう
また
 山登りが好きな人が同じように山登りが好きな人と
 山の話をしてわかちあう

 それが
 酒好きと酒の飲めない人が
   どうやって酒の話で分かち合えるのか

山登りも同じ
 山が嫌いな人と山が大好きな人では
山の話で分かち合えない

  それと同じ

悲しい人が 悲しみを抱えていない人と
  どんな悲しい思いを分かち合えるのか

悲しいだろうな~~~~~という想像の人と
  悲しいという言葉が軽く感ずるほどの かなしみを抱えた人とで
どうやって
悲しみをわかちあえるというのだろう

 支援者に聞いてみたい

  私の悲しみと あなたの何を分かち合うのか・・・と

居場所を作ってほしいと
切に願う

  わかちあいに参加して
      すこしでも  支えられたと思った遺族がいたら
 遺族のための
居場所を作ってほしい

 と

願う

   そんな人たちが  
     現れてくれることを
  願う

   そうすることで

必然的に
支援団体のニーズはなくなり
   行政の遺族の会も必要なくなり

   分かち合いは遺族だけ

他の支援は支援団体や支援機関が担う

 と
役割分担ができていくはず

   変なスーパーバイザーに傷つけられることもなく
 偉そうに
 蔑まれることなく

   自立ができる

そうすると
自死遺族の悲しみが  病気という概念もなくなる

    

   
  

蔑まれないように…生きる 亡き人のために。

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遺族の相談に
 時々厳しいことを言っている自分がいる

ほんわりと やさしく やさしく
    いえばいいのかもしれない

 しかし
 先がみえるから
    本音でいう

元気になってほしいから
  本気で言う
家族のように

幸せにはなれっこない
  なれない

元のような幸せは 来ない

青い空をみても悲しいですね・・といった53歳の息子さんを亡くした90歳の父親
  
   90歳になったその時も  老人クラブには入らず
      いろんな会に参加していた
姿勢のいい90歳の男性

   87歳の妻を案じ 介護をしていた

妻のほうが 自分よりも悲しいと思います、おなかを痛めて産んだのですから・・とも言っていた

  ストレスで病気になる遺族が多くいる

 末期といわれても
 一日でも 長く生きていてほしい
   いつも願い 祈っている

だから
  様々な病気になる副作用がある
精神薬は飲んでほしくない

  それでなくても
ストレスで 病気になる確率が高い遺族に
   さらに確率がアップする精神薬を処方するのは
      ひどい人たちです

しかも 治せもしないのに

  悲しみの治療とはなんでしょうか

 悲しみを病理化すると
   医師や、臨床心理士のほうが
遺族本人よりも悲しみの専門家となる
病気だから・・・・

ある自死遺族支援の代表は
会議でよく「遺族の支援には認知行動療法が必要です、私たちはそれを実行しています」
 と・・・・
この人は
  何か所もの行政の遺族の会に講師として呼ばれている
ということは
そこの行政の遺族の会は
  認知行動療法をやっている
ということは
 自死遺族を病気だと病人だと思っている

 だから いつも  偉そうに
  いつも上から目線

   遺族をさげすんでいる

亡くなった人の尊厳を守るためにも
    自死遺族にはプライドを持ってほしい

   自分たち遺族がさげすまれるということは
     亡くなった人たちが蔑まれるということですから

苦しんで死んだのに
   死んでまで  さげすまれるなんて

  許されない

   自責の念があるなら
      亡くなった人の尊厳は 生きている人が守ってあげないと
     なんのための自責の念でしょう

  亡くなった人のために
      差別や偏見 さげすみの世間の目をかえるためにも
    悲しみを抱えて
    毅然と生きていきませんか

    私の悲しみは 私のもの
       愛しいもの
 消すなんてとんでもない
     愛を悲しみを取り除かないでください

 と
生きていきませんか

   あ!
また 厳しいことを・・・・・・・・・

午後 東京に行きます
  自死遺族等権利保護研究会

悲しみはうつ病ではない、抗うつ薬では治せない。だまされないで!

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遺族の皆さん
 精神薬を飲まないように!

自死遺族になって精神薬を飲んでいる人は
  やめるように頑張ってください
長く飲んではいけません

 悲しみは病気ではありません

愛する家族を亡くして
悲しい気持ちがあるのが普通です

精神薬を飲んで  どうなるのでしょうか

 医師に聞いてみてください

この薬を飲むと 悲しい気持ちがどうなるんですか?と

  悲嘆という言葉は嫌いですが
悲嘆は1年・2年で消えません
  
子供を亡くされた親にお聞きしたい
  子供を亡くして
悲しい気持ちが なくなればいいですか?

悲しい気持ちがなくなったら どうなるのでしょうか

  子供が死んでも 悲しくもなんともなく  平気だということですよね

 生きていたころのように
     楽しくて  ルンルン
   職場も旅行も ランチも買い物も
  毎日が
 楽しい気分で過ごしたいということかな・・・・

 それでいいのかな・・・・

  死んだ子供は
      それをみて
 お父さんお母さん
    私が死んで楽しそうで よかったと思うのかな

   愛する家族が突然亡くなって

 悲しい気持ちを消したいという 気持ちが私には理解できない

いつまでも
息子を愛し続けているから
いつまでも
息子を想い悲しみもあるけど それでいい
なぜなら
彼を今も愛し 今も会いたい
   抱きしめたい
でも かなわない
    かなわないけど 会いたい
  会えないから悲しい

  精神薬を処方する医師は
軽いですから・・・という
   どの医師も軽い薬ですから・・・・と
ネットで調べてほしい
軽くはない
よく言えば 効能は軽くほとんど効かない
  ただし
副作用は 山のようにある

  効能は3つ
副作用は40とかが普通
それが
精神薬  睡眠薬(導入剤ともいう)

朝の薬が躁状態にさせる薬
テンションをあげる薬
睡眠障害が副作用としてある
夜は
うつ状態にする薬
  ぼーっとして眠くなる

真逆の薬を朝と夜に飲む

  鎮痛剤と同じで徐々に同じ薬が効かなくなり
  強い薬を求めるようになる

また
いつまでたっても
悲しい気持ちがなくならないので
 ずっと飲むことになる

いかがですか?と聞かれ
 最近時々 悲しい気持ちが出るんですよね・・・という

それが続くと
少し強い薬を出しておきますね‥といわれる

1年・2年…7年…10年と続く

その中で 後追いをする人もいる

ヤバい!ほんとにヤバい!

  {時間」「話すこと}「涙を流すこと}
    たくさん泣いて 泣いて泣いて
また泣いて
話して
  時間が過ぎて
      
ごまかす方法を自分なりに学んでいく

  私は息子を忘れたくない
     いつまでも 息子を想い続けたい

  だから 悲しみも 苦しみも
後悔も
  見つめたい

あの時あーすれば
という後悔はたくさんある

あえて避けて通らない

 息子を愛しているから
息子を救えなかった後悔の念と
向き合いながら生きていくことにしている

せめてもの
 息子へのお詫び

悲しみは愛しさ


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上智大学の岡知史教授とのつながりは
    自助グループの活動の大きな支えになっている
悲しみは愛しさという言葉は
   大切な表現
全国自死遺族連絡会の心
グリーフケアではなく
  グリーフ・イズ・ラブ

  愛する人を亡くした悲しみは 「愛しい」とかいて」「かなしい」と読む
岡先生が最近書かれた文書から
部分的に抜粋しました   
   
悲しみが悲嘆と言い換えられ、それが「反応」や「症状」と見なされてしまう危険性について前章で述べた[i]。悲しみは、人間にとって意味が深く、大切なものなのである。決して「反応」や「症状」として処理されるべきものではない。

 「悲しみは私の身体の一部」そんな悲しみが専門家と称する赤の他人によって、無遠慮にいじられ、批評され、「どういう段階にあるか」などと評価されたくない

 「かなし」とは、
現代ではほとんど「悲しい」の意味で用いられるが、
「愛し(=いとおしい)」から「悲し」という変遷をたどるのではなく、「愛情」と「悲しみ」の心は根っこのところではつながっている。

なぜ愛と悲しみがつながっているのか。古代において、なぜ一つの言葉として成り立っていたのか。竹内整一の「かなしみの『哲学』」という本。それによると古代の「かなしみ」は「人間の、思いのかなわなさ、あるいは届かなさ」と結びついていた[。その「かなしみ」の性格を理解すれば、平安時代に書かれた「伊勢物語」の、一人っ子の我が子を「かなしく」したという親の思いも見えてくる。

一人っ子であったからたいへん「かなしく」した、と。
何をしても足りないほどかわいがる、ものすごくいとしい、という意味である。
「ああ、この子はもう十分かわいがった」というのは「かなしく」はないのである。
そうでなく、どんなにかわいがってもかわいがり切れないほどにかわいい、ということが、「かなし」ということである。
ここにも基本的に、ある届かなさがある。届かないほどの切ない「いとしさ」が「かなし」なのである。



 自分の存在と重ねてしまいたいと思うほど愛しい人がいても、現実には重ねることができないという悲しさがあり、そこに愛(いと)しさと悲しさが一つになる。亡き人に「会いたい」と切に願う遺族の思いにおいて、悲しさは、まさに愛しさそのものだろう。

自死で愛しい人を亡くして精神科に行く人が多い
  それを 防ぎたいとおもっている
精神薬を飲んでも
悲しみは回復しない
   そもそも 悲しみからの回復などはない

回復は生き返ってくることだけ

   精神薬を飲んで悲しみが消えていいのだろうか

子供が自死で逝って
   1か月か2カ月で
悲しi
気持ちが消えた!ことを
   よかったと喜ぶのだろうか
  医師も お子さんが死んで悲しかった気持ちが
   消えてよかったですね・・・というのだろうか

   どこか変です

悲しい気持ちは愛しているから起こる気持ち
 見たこともない人たちが何人死んでも
    自分の家族が亡くなった時のように悲しくはない

それは 見たこともない人たちと自分の間に愛情がないから

それが普通

 悲しみは消えてほしくないと思っている

息子が亡くなったことが 悲しくない親にはなりたくない

   それでも
  時間は残酷で
     少しずつ 自分優先になっていく

  悲しみに慣れていく

毎日のように
 新しく遺族のつながりがある

  悲しいご縁は増えていく

    心が痛い

 

心に余裕のない時は・・・・

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人にやさしくなれそうにない心境の時もある
そんな時は
   電話に出ないほうがいいと決めている
めったにないが
 1年に2~3回ある

  苦しい人、悲しい人に思いをはせられない自分を感じたときは
    他者との対応を自分に禁ずる

  そんなとき、以前は行きつけの店で飲んでいた
  他愛もない話をして
     もやもやを発散してきた

   それでも 発散できない時
     誰もいない場所で 大声で叫ぶ
  ただただ  大声を出す

あ~~~~~わ~~~~~と
しかし最近はコロナで難しい

  
   表現は難しい
誰かを責めたつもりはなくても
   誰かが責められたと感じたら  それは責めたことになる
だからといって
   あなただって・・というと
エンドレスで言い合いになる

  そこに 愛があれば
 多少のことは 許せるのだとおもうが
   愛のない関係においては
     理解は難しい

 愛までいかずとも  尊敬の念があれば 許せる

  許せないということは 尊敬の愛もない関係に過ぎない

 ある遺族の話
その人は超まじめで 一生懸命で
   いい加減なことが嫌いな人

 きちんとした性格
   ある時のフォーラム
わたしと同じ部屋だった
しかし
私は遺族と飲みすぎて他の部屋で朝まで語り合い
 その人と自分の部屋には朝帰り

たぶん その人には とんでもないことで
  許されない行為だったと思う

 嫌な顔もせず
   朝まで帰らなかったみたいね・・・と。

 はい、すみません 酒臭かったでしょ・・と

それでおしまい

  その人は わたしを信頼してくれている
      わたしもまたその人を尊敬している

 そうやって14年と半年以上のお付き合いをしている

 人が大好きな私は
   人に裏切られ 人に蹴落とされ
足を引っ張られ
   ることも よくある

その反面
 とても私にはできない寛大な心の人との出会いもある
   やさしい思いやりのある
人との出会いも多い

   世の中は思い通りにならないことばかり

美辞麗句が苦手な私は
  
  ほめ合いもできないが
   裏切りはしな発散

裏切られることはあるが
裏切りはしない

  息子たちも同じ

長男は感受性も強く
 繊細
     酒も飲まず
 煙草も禁止 パチンコも禁止
   小遣いは5千円(一か月)
働き働き
家族を大事にし
   ただただ 真面目に暮らし
心が疲れすぎたのだろう


   人への思いやりって
なんだろう

 言葉で伝えなければわからないが
   その言葉も表現力がないと誤解を招く

  リアルに会って話すことが 大事だと思うが
 
   最近の社会は リモート社会

  自死の対策は
 リモートではできないことが多い

 コロナ社会は日本の社会の
生きづらさを増長させていく


  私自身
       の
心の余裕を回復させないと
   活動は止まってしまう

今日は午後2時から
 差別禁止法のためのリモート会合がある


  

悟れない、煩悩満載の日々

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以前にも何度か書いたことがあるが
 文字・言葉・文章で 自分の思いを正確に伝えるのは難しい
細かな部分まで書くと、長々と説明が必要になる

 簡潔に書くと 深い思いは伝わらないことがほとんど

 〇〇さんのことを書いても▽▽さんが読んで思い当たることがあると
    ▽▽さんは自分のことだと思う
 一般的なことを書いても
  自分のことを書いてると思う人がいたら
     自分のことを書いたよね・・となる

なかなか 難しい
 
そして 私は メルヘンチックな文章は苦手で かけない
  女性らしい女性の表現は 声での表現も 文字での表現も 全くできない

 理数系といわれることが多い
   だが
 性別は女性
 
 そんなわけで たまに 厳しいご意見を頂戴し
  お叱りを受ける


言い訳ですが
これまでも ずっと書いているが
  本当に様々な(精神薬の相談が多い)相談が多く
遺族に限定しようとしているが
   電話番号を公開(携帯2個・固定電話2個)
メール相談も各ホームページ(5~6個)から届く
  遺族かどうかの判断が電話番号ではできない
 電話に出てから
あ!遺族ではないんだ・・と思うが
   出たからには 相談に応じている

「会いたい」の本の発送も・・・

 毎日電話が5~15ある
メールは20~30通
 手紙もある

会議もある
 申請も報告も 会議室の予約も
   数年前から 活動の対応はパンクしている
 そのことで
   丁寧な対応ができないことも多く
      ご迷惑をおかけしていることも多い

失礼なことも 多々していることは自覚している
 71歳が過ぎ
    集中力の衰えは感じる

一人ひとり 皆さんのお力をかりながら
    活動をしているが
 やらなければならないことが多すぎて・・・・
日々自分のやれていないことへの不満はある

夫にも
  お前ごときに何ができるんだ!
何様のつもりだ!
 偉そうに!

いわれ続けて50年

 男尊女卑に満ちている人
    差別意識もものすごい

結婚50年でも やはり慣れない
そんな中で
 長男も次男も 優しい子に育った
それはある意味 わたしの結婚生活が反面教師となったのだと感じる
女性には優しく思いやりを持って・・と
育ててきた

話がそれた
(いつもことですが)

 私は私の性格もあって
    スタッフという形をとらないで活動をしている
  他者に厳しくなる気がするから
    私自身 自分が相手に対する言葉や態度で
      傷つけていないという自信はない
   私も相手の言葉で傷つくことも多いからこそ
 おおらかでいようと思い生きてきた
   失敗も
  言葉遣いも
   目上に対する態度や言動も
 上っ面ではなく
 心が言動に現れるからこそ
   細かなことは気にせず
いいあんばい  いいかげん
   ゆるし許され
 と


細かなことを気にすると
際限なく 気になってしまう

人間は不完全だから
   まぁまぁ~~~~~という気持ちで・・・

しかし
 そのこともまた 配慮にかけた ことにもなってしまうこともある

  私の活動の一つに「つなぐ」ということがある
専門家や遺族にも
 しかし
 それは
つねに お願いと感謝
  批判は覚悟
ありがとうございます。よろしくお願いします。
お世話になります。感謝申し上げます。申し訳ございません。

日常

 時々 わたしに感謝を述べてくれる人がいる
   ものすごく ありがたい
      何にもしてあげていないのに
   ありがとうと言ってくれる人がいることに  ありがとう といいたい

右の頬をたたかれたら 左の頬も差し出しなさい
という教えもある
無償の愛
何も求めない
という教えもある
何を言われても何をされても
 誤解であっても 言い訳せず
  ひたすら尽くす
という教えもある

私はできない

そんなに人間ができていない

  ダメな人間だから
ダメな親だったから
長男は逝ってしまったと どこかで思っている
 次男は
   結婚を望まず45歳は過ぎた

兄弟のような親子関係がいいのか悪いのか
   今も 惑いの最中

 こんなことを書くと
 もう一人息子さんがいていいですね
   とか
ご主人がいるだけいいよね
 といわれることもある

 どう 答えたらいいのか わからず
   沈黙しかないときもある

私は支援者ではない
  そもそも支援という言葉が嫌い
ケアという言葉も嫌い
 寄り添うなんて言葉はもっと嫌い

私は私の思いで 息子への懺悔の生き方として活動をしている

  その中で 誰かが何かを感じ
    その人自身が どのように生きるかを 選ぶのだと思う

 一応主婦なので
  家事もたくさんある

仏壇もある  お墓参りも・・・

私自身たまに行く歯科以外の病院に行かないので
  その分の時間はあるが・・・

洗濯と掃除が病的に好きなので
   一日中洗濯機が回っていることもある
   
煩悩が絶えない 
 しかし
息子の苦しみを思ったら
  頑張るしかない

  15年
     悟れないままです

もっと行動をおこすしかない

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自死遺族のための
  問題を解決、改善することは
      たくさんある

国が自死遺族のための支援として定めた指針
  様々にある
    子供の自死が起きた時
 会社で自死が起きた時
    ・・・・・・・・
 賃貸借契約の問題
     連帯保証の問題
  鉄道の場合
    ・・・・・・・・・・・
  特に力を入れた来たはずの
    いじめ等重大事態が起きた時の対応
   子供の自死が起きた時の対応
 
過労自死が起きた時の対応

    改定も行われてきたが
    一方で10年以上一度も見直しをされることなかった指針もある

同じ文科省で
子供の自死に関して
  改定をしてきたガイドラインと
     放置されてきたガイドラインがある
乖離がみられる
当然のこと
 
自死遺族が自死遺族と知られたくないということを
  逆手に取り
     知られたくない人たちなんだから
なるべく公開をしないように 配慮して
  保護者説明会も
   第三者調査委員会の設置も
         脅かしてでもうそをついてでも
       遺族に公開を望まないという言葉をに言わせようとしている
学校と教育委員会

それを配慮と彼らはいう

  自死遺族は公開を望まない人たちだから
     自死遺族の気持ちに寄り添って
 できるだけ
保護者説明会を開かないように
 また開いても事故と伝えるように
第三者調査委員会の設置など決してさせないように
  そんな気持ちを起こさせないように

マスコミが殺到するとか、兄弟への聞き取りや ご近所への聞き取りも・・などと
  うそを伝える
しかし
彼らは自死遺族のためにしたことだという

 また更に
   事故だという説明をすることでOKだった遺族が
 突然自死でしたと真実をいうと
約束違反だという
今更 そんなことを言うのは…と

   子供が死んでまだ温かい体を前に
 錯乱状態にあるときに  保護者説明会のことや第三者調査委員会の設置のことなど
      説明するという行為そのものが 人道に反する行為だと思う
人でなしのような
 行為も 彼らは 遺族に丁寧に説明し 素早い対応をしたという

  そんなときに素早い対応をしなくていいから
 子供がいじめられているといったとき
親が子供のことで相談に行ったとき
   その半分でもいいから 素早い対応をしたらいいのに
なぜ
その時はしないで放置して
   子供が死んだら お悔やみの言葉より先に
    保護者説明会のことを説明するのか

  教え子である子供は眼中になく
   自分の保身のみの行動としか思えない

教え子という言葉は 今の教師には死語に過ぎないのだろう

 内閣府や厚労省の委員をしてから
  要望書や申し入れ書をしていないが

 これからは
せっかくの委員という立場を活用し
   国会議員を間にして
      各省庁に申し入れと話し合いをしながら
マスコミに取り上げてもらうこともしていかないと

   全く改善されて行かない

全国自死遺族連絡会しか
  やろうという気持ちはない

   複数の全国組織を掲げる自死遺族支援団体はあるが
   どこもやらないだろう
  やるきもないし
   問題点も知らない

   自分たちのことは自分たちで 
協力してくれる専門家とともに 行動をおこすしかない

いのちの選別

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コロナ対策と自死の対策は真逆
 自死が増えているというが
  わかっていたこと

増えることを想定してのコロナ対策
  どちらを優先するか
コロナ対策の優先

   失われるいのちの重さを比べた結果の対策

いのちの優先順位ということもコロナ治療で話題になっているが
  コロナ対策の段階で
  コロナ感染で失われる命が最優先
  その中でさらに優先順位が決められているだけに過ぎない

自死で失われていくいのちの優先順位は最下位

 何もかもがコロナ最優先
  他の病気もコロナの治療の次

なんか違う気がする

マスクをしての授業 登下校
子供たちの笑顔が消えたといわれている

笑顔が見えない

子供たち同士で遊ぶ時もマスク
   
 リモート授業の大学
  授業料は普通に支払う

 部屋で誰にも会わずに パソコンと向き合う
    音は邪魔になるから
できるだけ静かにして・・・
  リモートの授業をうけ
レポートをたくさん書き
  それをまたパソコンで送る
朝から晩まで
   パソコンに向かい
外に出ることもなくなっていく

  絵画や音楽の授業もリモート

治療もリモート・・

洋服も・・・・

しかし
洋服や靴などは
微妙に色合いや質感が違うことが多い
 2度ほど 色合いがあまりにも違ったり
  質感が全く違い
 それ以来
  見て手にして買うことにしている
見ても
 デパートや店の照明で見た時と
    太陽の下で見る色合いと違うこともある

大雑把な感覚の人たちには気にならないのかもしれないが
   日本人特有の 繊細な感性を持つ人には
        ネットで買うものには限界があると思っている
なんでも
ネットでリモートで済まそうという流れは
人間社会を否定している気がします

違和感だらけの今
  
  感染防止とはいえ
   買い物をして お金を払うのに
気を使い
  透明とはいえ遮断され
   下から手を差し伸べて 手だけで金のやり取りをする店が多い
       拒否感が半端ない 拒絶されている気がする

人と人との接触を避けるのがコロナ対策
 孤立を防ぐのが自死の対策

今頃 自死が増えたと騒いでいる自死の対策に携わっている団体や機関
  コロナ対策が取られた段階で
   わかりきったことのはず
なにを 今更と…思ってしまう

  なぜ増えてから騒ぐのか

  増える前から これまでの蓄積の中から
提案できたであろうに・・と思う

   人が死んでからでなければ動かない世の中
 それも
大勢の人が亡くなってから 大変だ!と騒ぐ社会

   コロナで失われる命は、毎日カウントされる
 3人・ひとり・・4人と

   癌も含めて
いろんな理由で失われていくいのちは
    毎日365人以上  1か月1万1千人前後 年間13万人
 自死は62人前後    減って年間2万と少し

   どこも誰もカウントしない  

自死が増えている現実があるが
  相談機関はコロナている対策に追われている

自死遺族の会の多くはお休み

   自死遺族の相談電話も コロナ対策でつながりにくい

今後ますます
増えるであろう自死者

   誰も本気で取り組もうとしない対策

  経済が悪化しているのに
   上がる株価
昨年よりも
景況感が改善されたという報道をする新聞
 
 不思議なことばかり

   刻々と 独裁化が進んでいるきがしてならない

人を追い込むシステム化が進んでいる

たくさんの議員が集う議会や委員会はOK、職員同士の会議はOK、市民との集会は10人でも禁止のコロナ対策


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ずっと感じ、ずっと言い続け、岡先生も論文に書いているが
 わかつていても どこかで期待していたのか・・と
  自分惑わされていたことに
 愕然とした
それは
 自死という問題は
   自死の問題担当の行政の職員
  いのちの○○
 ライフ〇〇〇
   よりそいい○○〇〇○○
 他
  自殺対策の委員たち
    何とか大学の教授
  様々な支援団体
 
自死という問題にかかわり
   とり組んでいると自負し
 講演したり 発言し
 講師と呼ばれている団体や諸先生

    他人事です

 仕事ですから 研究ですから
   支援をしてあげてる人達ですから

  偉そうにいう人たちほど
      余った時間 ほんの少しだけ
   自死ということにかかわっているのだと
 
心の底から思い知らされました‥コロナのことがあって

  コロナでの死亡が・・  1か月200人弱 令和2年1月~9月・・・1400人未満
   自死は1か月 1700人以上
      令和2年1月~9月  10,000人超え
今も増え続けている
  しかし
世の中コロナ・コロナ・コロナ・・・
   コロナ以外の病気も 本来の治療ができず
  亡くなっている人も多いと聞く

  10人~13人程度の集まりも コロナ対策ということで禁止という行政や支援団体
しかし
 仕事は密な状態でやっている
   活動の打ち合わせは 密な状態でやっている

自分たち以外の人たちとの接触を避ける・・・という意味?なのか・・・
  厳密に密を避けるというなら
 議会も開いてはいけない
  市役所も区役所も 病院も
   県庁も なにもかも禁止ですよね

   県庁の仕事は今まで通り
  議会も委員会も今までと同じ
でも
  部外者と会うのは禁止
県外に出るのは禁止
   仙台から東京に行くことは禁止
でも
東京から多くの人たちが仙台に来ているのは気にしない

   科学的根拠もなく  みんながバラバラ
ブラックジョークのよう


     自死の問題にかかわるなら
   緊急事態のいまこそ
     向き合うべきである
 片手間にやるなら
   私たちは・・・と 力説して自慢はしないでもらいたい

  自分たちの都合のいい支援

支援者の都合のいい時だけ 苦しみなさいとでも思っているのだろうか

 当事者がやるしかない
 と
つくづく思う

  支援者の都合に合わせられない

   自分たちのことは自分たちでやるしかない
そこに
 応援してくれる専門家がいればいい

 
10人の2時間の集まりが開けないなら

40人以上の人がいる会社や役所で
働くのは危険です…一日中いるんだから

テレビだって あんな方法では危険
  室内ですから

  仙台で 広瀬通りでの会合はOKで
  河原町での会合は禁止
     旭丘は大丈夫

その線引きはなんだろう

   県庁での会合はOKセンターでの会合もOK
 電話からにぎやかな談笑の声が聞こえた
  それはOKで
職員以外の人たちと
 10人で集まるのも禁止

違和感を感じない人たち

 自分たちは特別
 他の人を信頼していない

 差別の心

自死が増えている・・とかいいながら
  何にもしていない

 いや なんにもしていないどころか

やれないことへの免罪符となっているのがコロナ

コロナが・・・
コロナが・・・
やる気はあるんですが・・・コロナが・・・

 来年もコロナはゼロにはならない
再来年もゼロにはならない
世界からコロナウイルスが消えない限り
  コロナ感染の拡大の危険性はある

ワクチンがあってもインフルエンザ薬もあっても
 年間3000人はなくなる

コロナもワクチンができても治療薬ができても
  感染は続く

日本に1人でもいたら 広がる

  自死は増え遺族も増え
    支援する対策をとるという言葉と金だけが動き
 当事者以外は満足し
     自死者とその遺族は
自分のことは自分たちで何とかするしかない状態が続く

自前で・・・・

なんか違う気がする