
ALS患者の嘱託殺人の事が、
自死と同じに語られる事は、自死遺族として胸が痛い。
この事件のことで
いろんな機関、また行政などで、グリーフケアの講師を呼んで
シンポジウムなどが開かれたりしているのを見て、、、、
名もない自死は、死がなかったことにもしてしまうような
人たちが
話題性の高い事件をネタにして・・・しかも自死という事に絡めて
ワーッと飛びつき
真剣なふりをして いかにもというような
物知り顔で語る構図
胸が痛くてたまらない
座間市の連続殺人の時も、自死と同じとして、取り上げられたが
「殺人」と「自死(殺)」は同じではない。
自死は殺人ではない
自死は自ら命を絶つこと
自分は命をおとすが・・・・・他者を犯罪者にはしていない
根本的に、自分の命を絶つ行為を他者に依頼する先に何があるのか、
それはその他者を「殺人」という犯罪者にするという事。殺人ほう助も犯罪行為。
今回の嘱託殺人や座間市のような単なる連続殺人を亡くなった本人が「死にたい」と望んでいたからという理由で、
あたかも殺人ではなく、自死(殺)自ら死ぬ権利があるのだから、
それを救ってやったかのようなとらえ方をする人たちもいて
死ぬ権利が議論となっていく
その一方で、死にたい人でも、人を殺したのは犯罪だという歴然とした規則が根底にあり、
自死も自分で自分を殺したんだから・・・
自死(殺)も罪のある事として世間は捉え、自死(殺)した人とその遺族に、
殺人者と同じような償いを負わせている。
悲しいが いろんな病があって
進行していく過程で 動けなくなることもある
動ける前に・・・・・自死する人もいる
その底に 何があるのか
病を治せない医療
動けなくなった患者をサポートする医療や福祉体制
人間を人間として尊重し
動けない人でも その尊厳が守れらる支援には
日本は程遠い
働かない人は食うべからず
働けない人は価値がない
そんな文化風土がある
生まれたのは偶然かもしれない
が
命をつなぎ 1年・2年・3年と
育てるのは
子供が思うより 大変
育てる過程で
親が親として成長する
我慢・忍耐・無償の愛を・・・
殺してほしいと望まれたから
殺すって・・・・
殺人です
ALSの病気の人をいろんな場面でそれなりに多く見ている
もちろん 私はその人たちの苦しみはわからない
しかし
「死にたい」と思わせた要因に注目することが大事だと思う
死にたい人は死なせたほうがいい…という発想は
人間の「生きたい」という本能との整合性をどう説明するのでしょうか
「死にたい」と思う事は人生何度もある。
病気の苦しみからいっそ死んだほうがと思う事もあるでしょう。
死にたいと思わせない社会の在り方を考えることが大切
であって
死にたいといえる社会でもなく
ましてや 死にたいという人を死なせる社会ではなく
生きていて よかった・・・と
少しでも 思える社会を目指すことが大事
息子の自死は
いろんなことの結果だと思う
一つでも
違っていたら
生きていた
死にたくなかった…・息子が
なぜ自ら‥と思う
息子を追い込んだ要因・・・
それらの一つでも なかったら 生きていた
人が死ぬという事は
家族が苦しみ悲しむことは必然
老衰で死んでも
遺族に悔いは残るという
死にたいけど自分で死ねないから
殺してほしいと頼み
それを 実行する人たち
殺伐とした光景が浮かぶ
自死の問題も 複雑で一人ひとり 違う
やるべきことが
山のように見えていても
15年活動して ようやく1歩
山を崩すまでに どれほどの時間が必要なのか
想像を超える
でも
これだけは いえる
人にやさしい社会であること
やさしさや思いやりも含めて
社会は教育が作ると思う
日本の教育は 違う方向を向いている気がしてならない