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自死遺族の会「藍の会」 2006年7月からの開催
仙台で開催している
仙台駅前 アエル28階 エルソーラ仙台(男女共同参画施設)
自死遺族だけでの開催
受付も準備も全て自死遺族
参加費 100円
自死遺族だからこそ
自死遺族だけでの「わかちあい」が必要だと信じている
世間の人に「自死」と言わない遺族が多い
ではなぜ
ボランティアの人には「自死」と語れるのだろうか
自死遺族以外の人たちが 自死遺族をどのように思うのか・・・
それは
自分が自死遺族でなかった時を思うとよくわかる
幸せな日々の中で暮らしていた時
自死という事を聞いてどう持ったのか
ご近所で自死が起きた時
その家族をどう思ったのか・・・
それが
社会の目 世間の目
私は
自死という事にあまり関心はなかった
自死という事が報道されると
決まったように「死ぬくらいなら・・・・」と思っていた
漠然とである・・・が
「死ぬくらいなら なんかできたんじゃないの・・・」と思っていた
昔々若い頃 失恋しそうになって睡眠薬を医師に処方してもらおうとしたら怒られ
薬局に買いに行って 飲んでみた・・
でも それは ファッションのようなもので 恋に酔っていてのこと
育ての母が二度壮絶な未遂をしたのを見ているが
能天気な私は
深く考えたことがなかった
青春時代は
自分の事だけで 親の悩みも深く思いを馳せることはなかった
息子が死ぬなんて思いもしなかった・・・
死が怖いということは
親子で共通していた価値観だったから
あんなに怖がり 嫌がっていた死を
自らの手で行うなんて 想像だにしなかった
ある日突然 息子が逝き
誰も助けてくれないから 自分で会を立ち上げた時に
はじめて
世間の自死への目が
私が思っていた「死ぬくらいなら・・・」という 生易しいものではなく
無知で貧困で愛情のない人たち
それが遺族
という 激しく酷い世間の目があった
自死遺族を支えるための研修会などが
頻繁に開催され
厚労省主催の研修会も連続して行われていた
何度か参加者として研修を受けたことがある
その後
講師として招かれた事や
厚労省と共同で研修会を開催した事もある
そこでの研修内容や
講師同士の 打ち合わせなどで
自死遺族への差別的発言をたくさん聞いてきた
だから 私は 民間のボランティア団体の自死遺族の会には参加しない
何度か参加したこともある
が いかないと決めている
他県が主催する自死遺族の会にも参加したことがある
が
完全に 精神疾患者の会の方法だった
患者会?
スタッフミーティングでは 振り返りをする所が多いが
あの遺族はこうだった
この遺族はこうだった・・・
要注意ですね・・・とか 言っている
いろんな遺族を想定して 研修会が開かれる
暴れる遺族
同じ話を繰り返す遺族
自分の事だけ話して人の話を聞かない遺族の場合
沈黙だけして話さない遺族
金のない人が多いから
借金を申し込まれないように・・・
知識がない人が多いから
ゆっくりうなずいて話を聞いて
難しい事は言わないように
感情の起伏が激しいから
そんな時は二人で寄り添うように
会以外の所であっても
立ち話などしない事
連絡先は教えない事
などなど
ずいぶん前に 現代のエスプリに書いたことがある
遺族同士連絡先の交換はさせない事
もある
かわいそうな人 という目で見られたくない
悲しみを抱えているが
かわいそうな人ではない
やさしい 言葉の裏に なにがあるのか
私は
たくさん見てきたし聞いてきた
だから
自助グループに拘り 広げてきた
もちろん
自死遺族も様々
悲しみに全てが覆われているときは
本性が見えない
悲しみという霧で包まれているから
それが時間の経過と共に
悲しみという霧が 下に沈んだ時
本性が現れる
その時
悲しみを抱えた分
だけ
亡き人のまなざしを感じて 自戒しようとしている遺族と
本性のままに戻る遺族がいる
しかし
差別と偏見に関しては
少ないと思う 思いたい
自死への差別と偏見が遺族自身にあるとしたら
天に向かって唾を吐くようなもの
自分だけが特別な自死遺族という意識の人もいるが
世間の目は
同じ自死遺族である
悲しみを抱えている分 やさしい集いができる
自助グループを広げたいと思う