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心のケアに対する怒り
(奥さんを精神薬により突然亡くされた中川聡さんのブログから)
野田正彰「喪の途上にて」
これは御巣鷹山の日航機事故の遺族にヒアリングした研究
現在の震災被害者に対する「心のケア」が如何に薄っぺらで、的外れなことであるかが良くわかる。
野田先生は、「震災被害者」に対して「眠れていますか?」というメッセージとともに睡眠薬がばら撒かれていることに激怒しているが、先生の言動がこうした「遺族の心の分析」を踏まえているということを改めて知った。また、ご本人は嫌がるかもしれないが、野田先生なら「心の専門家」という称号を送っても良いと思う。
本の内容は、勿論、私自身の体験とも重なる。
震災遺族、自死遺族にも共通した体験である。
野田先生は、喪の過程を次のように分析している。文はネットから拝借しました。
http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/49aibetu.htm
まずは一読頂きたい。ここだけ引用すると野田先生が遺族を唯の研究材料をして扱っているような印象を受ける恐れがあるが、この遺族たちは野田先生の十分な気遣いのもとで、後の人々の為に死を意味あるものにするという目的をもって協力していることを強調しておきたい。
第一段階は「衝撃状態」である。取り乱さずに異常な平静さを装う人も少なくないが、内面は衝撃状態にあると考えて、十二分な配慮が必要な段階である。事務的なことは周囲が代行し、色々な決定を求めてはならない。
事故後の遺族の度を過ぎた気丈夫や勤勉には、自己破壊の衝動が隠されている。自分を痛めつけることによって、死者の苦しみを共有しようとし、また自分を置いて死んでいった死者の注意を呼び起こそうとしているのである。
第二段階は「否認」。死という事実を客観的には知りながら、主観的には否定するような状態である。周囲の者は、無理な励ましや嘘の期待を言ってはいけない。相づちを打ちながら話を聞いてあげるのがよい。
第三は「怒り」の段階。周囲の者は、あえて怒られ役になって、怒りを外に導き出してあげなければいけない。加害者への怒り、理不尽な運命への怒りが表出されないと、自己破壊に向かいやすい。
第四は「長い回想と抑うつ状態」。感情も意欲も湧いてこない状態が続く段階。これも必要な喪の作業のひとつである。死にゆく時間が短かすぎたために、死後に死の過程を行わなければならない。死にゆく時間を死者と共有できなかった替わりに、自らの感情や意欲を凍結させて死にゆく過程を共に体験しているのである。
事故後の遺族の抑うつ状態に対し、周囲の励ましは無用である。じっと見守る心構えが大切で、多くの時間をひとりにしておくか、黙って横に居てあげるのがよい。
そして第五の「死別の受容」となる。
ただし、これらは手引き書にして画一的に対応すべきことではなく、また補償交渉などは第四期を過ぎてからすべきだという。
過酷な喪失体験を克服するには時間が必要であり、その時間のことを野田正彰氏は日薬(ひぐすり)と呼んでいる。つまり愛別離苦に特効薬はなく、日薬でゆっくり治療するしかないのである。
悲しみの長さは喪の作業の成否にかかっている。その作業の大きな障害は、悲しみの激しい苦痛を避けようとすることと、悲しみの感情の表出を避けようとすることの二つで、これにより悲しみが病的悲哀となり精神障害が発生することもある。
私たちは毎日の生活の中で、些細なものの喪失から、家族の死、さらには自分自身の病気や死といったことにいたるまで、たえず喪失の体験に遭遇している。だから喪失体験を克服するための時間学は、誰もが知っていなければならない精神衛生の基本知識である。
私は、いまだ裁判をやっている。随分と時間がかかってますねと言われるが、その理由もこの野田先生の分析で説明できる。
裁判では、恥も外聞もないし、なにより被告側は酷い人格攻撃してくる。私には、その責め苦に耐える準備を整えるには5年近い時間が必要であった。現実に正面から対峙するのにそれだけ時間が必要だったのだ。
この過程を経たからといって悲しみや怒りが無くなる訳ではない。
言葉では言い表しにくいが、これは悲しみや怒りを受容していく過程である。悲しみや苦しみがなくなった訳ではない。8年の歳月を経て、私の怒りや悲しみは私と一体化したと言った方がしっくりくる。
傷跡は消えることはないし、時々傷む。いまだに近づけない場所さえある。
遺族にたいする内容は、実際に本を読んで頂くことにして、私がこれを読んでおもったのは、これは、「悩める人」全てに応用できるものだということだ。もちろん、野田先生の書いている通り、手引き書的に利用するものではない。
手引き書的に利用してしまえば、それはDSMや認知行動療法、インチキカウンセリングとなる。
仏教の四苦八苦については何度か書いている。
http://ameblo.jp/sting-n/entry-11516326775.html
愛別離苦(あいべつりく) - 愛するものと分かれなければならない苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎んでいる対象に出会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく) - 欲しいものが得られない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 心身の機能が活発なため起こる苦しみ
仏教は良く出来ている。デタラメな精神医療を中心とした精神保健モデルに対する代替として宗教に期待する声があるが、こちらの方が格段優れているのだから当たり前である。精神保健モデルの最大の欠点は、人間のこうした悩みの克服プロセスを無視し、傲慢にも他人からの干渉や投薬により解決できるとしていることである。苦しみや悲しみは、個々人が受け入れるものであって、強制的に治療するものではもちろんないし、出来もしない。
野田先生が「愛別離苦」について、周囲の人が知っておくべき時間学を示したように、その他の苦しみについても同じような研究は出来ないものだろうか。これは、数千年に渡り、人々が取り組んできた命題そのものであるから、様々な宗教や哲学においても既に議論されてきたはずだ。
ちっぽけな精神医学の脳疾患モデルなど、殆ど出番などない。医療は、本当の脳疾患だけ扱えば良い。
人の悩みに苦労知らずの医者が口を出すなということだ。
「嫌なことは忘れて、前向きに生きましょう」的なアドバイス程腹立たしいものはない。
傷を何度も抉られるような経験を経てやっと受け入れていくようなものであって、それに代わる克服手段などもとからない。
とくに「心のケア」という掛け声は、もういい加減にやめにして頂きたい。
それは、それぞれの中で徐々に培っていくものだ。
他人に出来ることは、きちんと悲しみ、怒るための時間と空間を用意してあげることだけである。
支援者は、心のケアと称して、本人のこうしたプロセスの邪魔をしないで頂きたい。
人の心が判ったようなふりもやめていただきたい。