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語れない死・・知られたくない死・・自死

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自助グループは自死遺族だからこそ必要だと思っている

 自死ということを語れない人たち
 
    自分が自死遺族だという事を周りに知られたくない
       家族にも知らせない人も多い

   病死や事故死と伝えている場合が多い

      でも「うそ」は時としてしんどい

なぜ?どうして?という思いがあるから 
  一人で抱え、誰にもいわないということは 大変なこと

孤独感に苛まれることも多い

    死んだからしょうがない・・と 割り切れたら楽なのかもしれない
 が多くの遺族は自責の念が深くなる

    誰にも話さずひたすら耐えて耐えて・・・我慢すると
      感情が爆発することもある

    何も言わず 笑顔でうそをつきながら 生きることは 難しい

    人間は  おもいっきり グチることも必要
       想いのままに 話すことも必要
泣くことも含めて 弱さや苦しさやかなしさやさみしさを
     隠さない時間も必要

ウソで隠して生きて行ける人は
  それはそれで  すごいこと  

   家族の自死と向き合うと つぶれてしまうから
        ごまかして みてみないふりをして生きる・・という人もいる

   生き方はそれぞれでいいと思う

でも 話したいと思う遺族がいて
   他者には知られたくないという遺族がいた 同じ遺族同士の集いは必要である

  いじめられて亡くなった子供が通う学校が
  市立や県立だったら

 市が主催する会に参加できない 県も同じである

     学校の批判はできない

保健師は市役所や県庁の職員だから・・・

    裁判になったら 敵である

また 保健師がご近所の人の場合もある
   ボランティアも同じ

ボランティア団体の主催する会に参加したら
亡くなった子供の親友のお母さんがスタッフでいた・・ということもある

遺族同士なら お互いさま
    自死遺族だから・・・
知られても お互いさま

  それでも こんな人もいる

 ○○さんという人が自死遺族だけど
  自分が自死遺族になったことは その○○さんに知られたくない
  どこどこの  ○○さんという人は会に参加していますか?という問い合わせもある

     それほどの知られたくない家族の自死
   そんな遺族が多いからこそ
    自助グループが必要なのです

  知られてもいいという人は 支援者がいる会に参加できる
 が 知られたくないという遺族は 自助グループ以外の会の参加は難しい

    支援者たちなら知られてもいいという特別な他者にはならない

   遺族に私の氏名や住所を知らせても
自分の 住んでいる地名を知られたくないとか
  本名を知られたくないと思っている遺族もいる

一方的に手紙やメールやFAXが届くことも多い
 こちらからの返事は望んでいない

   ましてや     支援者は自分の事情も連絡先も教えない
      支援者が自分の個人情報は知らせず 遺族の個人情報を知ろうとするなんて無理です

    
    自助グループが広がってほしいと願っている

      安心して語れる場所が 必要

 1回だけでもいい 参加したいときに参加できる会があったら・・と思う

   自死という事が 普通に語れるようになったら
    自助グループは 必要ではなくなるのかもしれない

    今の日本は まだ語れない
  差別と偏見が蔓延している
      
      いじめとパワハラ・・言葉の暴力

    陰湿に静かに 暴言を吐く

       無知であることが 輪をかけて差別と偏見を助長する

例えば

仏経

   人は亡くなって 成仏するのではない
    往生するのである
 こんなことも  ほとんどの人は知らない

  自死だから成仏できない・・・ではなく
   亡くなった人は全員成仏していないのです

往生を遂げているだけ・・・

    死んですぐに仏に成ることはないのです

    間違いだらけの世間の知識

  亡き人を侮蔑するような事は 天に向かって唾を吐くようなもの
     亡き人を大切に思う心を持つことができたら
     生きている人にも優しい社会になると信じています

  自助グループが必要とされない社会こそ
   自死のない社会になるはずです
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症状と感情

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  自死という問題と関係ないと思って生きている人たちがほとんどだと思う
私も
関係のないことだと思っていた
しかしある日突然 長男健一が自死
  あの日から 自死の問題のど真ん中で生きてきた

自死の対策は国が税金を投入して対策を行っている
その額~300~400億円
 毎年です、毎年。
47都道府県もその中から補助金を受けて対策をしている

その中に「自死遺族の自助グループ等支援」という項目がある
  しかし 自助グループが支援をしてくださいと要望しても拒否する自治体がある
      不思議なことです

 でも遺族たちは自分たちで活動をしている

それも「総合支援」を!!!

 「悲しみ」は消えない
   「愛する」気持ちが消えない限り消えない
愛する気持ちは 家族が死んでも消えない
   亡くなるとよけいに愛が深まる気がする
    喪ってみて こんなにも愛していたことに気が付く
  生きていて当たり前すぎて
    生きていることが前提だから
 
良い面ではなく 欠点だけが目につき 文句を言う
   ほめたりしない
      早く起きて!とか 早く食べて!とか
  酒飲んで!とか 夜遅くまで起きて!とか
      寝てばかりいて!とか
まぁ~いろんな不満をタラタラ言って暮らしている人が多いと思う

傍にいるのがあたりまえの人が  突然逝ってしまい
    なぜ?どうして?

不満を言っていたことが 後悔となる
    取り返しにつかない後悔
自責の念に苛まれる

    こんなにも大切な存在だったのだと 後悔

これほど愛する存在だったのだと思い知らされる

      だから「悲しい」

 愛しているからこそ 沸き起こる悲しいという感情
    それを
  取り除こうとする他者~支援者が増えている

    悲しみを抱えて生きている人たちは 
        愛する人の死から 人への思いやりを学ぶことも多い
  悲しみを 
   亡き人からの愛のメッセージと受け止めて
      生きていることへの感謝と 全ての人への慈しみを持つこともできる

それは悲しみを味わったことがない人よりも
     深い心を持つことになるはず

      悲しみは 悪いものではない
  
   好んで悲しみを抱えたいとは思わないが
       息子からの重たい問いかけだと思って 受け止め続けようと思っている

   私の悲しみは 他者である支援者に とやかく言われたくない
    私と息子との間にある悲しみに 誰も入ることを許さない・・

  悲しみを何とかしようと思う人が増えている日本

        何とかしようと思っている人たちに聞きたい
幸せですか?
 本当に死別の悲しみを体験したことがありませんか?
   かわいがってくれたおばあちゃんやおじいちゃん・・・親戚でも誰も亡くなっていませんか?

 20歳くらいまでの間に  多くの人は
    父母・祖父母・叔父叔母・・いとこ・・級友・知人・近隣住民・・・知り合い
       友人・友人の祖父母などなど・・・
一人の死は経験すると思いますが・・・
   その時 かなしいという気持ちにならなかった人たち
     が
 他人の死別のケアに興味を抱くような気がする

  自分に死別の悲しみの体験があったと思える人は
        その悲しみがケアできるようなものではないと思うはずである

それとも
     自分は特別な存在で 人の悲しみをケアできるとおもうのだろうか

  悲しみに鈍感な人たちが 悲嘆の回復などというものに興味を示す気がする

     かなしいという繊細な感情のケアをしたいと思う人は
            関わってほしくないと思うような人が多いのも皮肉である

  悲しみという感情は自分の心

しかし 悲しみ以外の支援は それぞれの専門家が必要
   やってほしい支援はたくさんある
 
 やってほしい支援には 関心を示さず
       支援できないこころの支援に支援者が殺到する

    人の苦しみや悲しみという  人の心を救うという
まるで神様にでもなったような 救い人に 人間はあこがれるのだろうか
     人々の心を救う人になりたいのでしょうね

  英語のグリーフを悲嘆と訳したことがそもそもの間違い
     グリーフは日本語の悲嘆や悲しみではない
かなしい時に起こる様々な症状をグリーフという
 かなしい 症状と「悲しい」という感情は違う

   泣いたり 涙があふれたり
  叫んだり・・・食欲がなくなったり
  熟睡ができなくなったり
  笑えなくなったり   ・・・・そんな症状をグリーフというのです

それは 年月が過ぎて行くと 少なくなり 消えて行きます

でも・・・でも
 泣かなくなっても 涙が出なくなっても
   食欲も元のようになっても 笑顔でいても

日本語の「悲しみ」は消えていません

     ずっと心に抱えているのです

それを消すことは記憶を消すこと
      
      症状と感情は全く違うのです・・と 言っているのですが
          聞こうとすらしない人たち
   あいまいなままに  いいかげんな内容が
    王道になっていく
その程度の知識で
人の悲しみを、いかにも神様の支援のようにすり替えないでほしい

  ましてや かなしいという感情を知らない人に 
   悲しみのケアなどできるわけもない

 神様や仏様でも この悲しみのケアはできないのですから
  人間に悲しみのケアなどできるはずがない

 自分の悲しみは自分のもの

    一人ひとりの悲しみは 一人ひとりのもの
    亡き人と自分とで 語り合い問いかけ 抱え方を見つけていくだけのこと

   

  

毎日悲しい

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久しぶりに夏野菜のカレーを作った
   急に涙があふれた
悲しくてかなしくて愛しくて
 胸が締め付けられ 息が苦しくなってしまった

  今も悲しい 涙が流れてくる
 
 激しく泣き叫んではいないが 涙が止まらない

   どうして逝ってしまったのか・・と おもう

 あんなにも食べることが大好きで
  あんなにも家が大好きで
 あんなにも死が怖かったのに・・・

      楽しいことが大好きで
    いたずらが大好きで

     人を思いやることができて・・・大きな声で怒鳴ることなんてしない子が・・・

        どうして逝ったのだろうか

生きていたら今頃 
 45歳の健一が14歳の娘と  どんな会話をしていたのだろう

 私は 旅行と趣味の手芸三昧だったのかな・・・
今は
想像もつかない

息子が生きていたら   知り合うこともない人たちと出会い
   行くことのないところで講演
      国の委員などして発言している
文章を書き 本にも掲載されている
   見ることもない 文書も作成し
  要望書も作る

  人生は56歳で一変した
  息子の人生はもっと変わった
 彼は生きてすらいない

     地の気が引くことが多い

スーッと 冷たい血が流れるように 寒気が一直線に走る

  なぜか スーッと

   健一のことを思わない日はない

    悲しみはずっとずっと 続いている

   でも 見た目は 元気で幸せそう

   心なんて 誰にも見えないものね

     見せたいとも思わない

  幸せな人に 合わせて ニコニコ笑える
  でも 会話はなんとなくつまらない

    私に頭には いつもいつも自死の問題がある

  毎日受ける相談 
     
   どうしたら いいのか・・といつもおもう

     遺族からの連絡

ああああ~~~~~またひとつの命が・・・と思う

 切なく かなしい
   無力感に襲われる

  生きていてほしい
    生きてもらうにはどうしたらいいのだろう

    

精神薬は自死の促進剤

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どうしてこんなにも 精神薬を飲む人が増えてしまったのだろう

 どうしてこんなにも 精神科の敷居が低くなったのだろう

    すべてはアメリカの製薬会社の戦略
  飲んだらやめられなくなる精神薬の販売促進のために莫大な金を投入し
 医師を抱え込み~学会発表~本の出版~新聞への広告
   毎日CMを流し、ネットの広告
 いつのまにか
  私たちは 惑わされ 洗脳されている
    悩みがあると精神科~精神薬の流れが出来上がっている
  人間は悩むときがある~~いや生きることは悩みの繰り返し
   人生は思うようにはならない
       だからといって 精神薬を飲んでも悩みは解決しない
失恋~~~落ちこむ~
   恋の病に薬は効かない
   新たな恋が薬である
 就職が決まらない~落ちこむ
  精神薬では仕事は決まらない
   面接にも行けなくなる
        日々の暮らしの中でストレスはある
それは自分が思ったように物事がならないから
    でも精神薬を飲んでも ストレスは消えない
 物忘れが多い人・無口な人・人との付き合いが苦手な人
     こんな子供や大人も精神薬を飲んでも
        物忘れも治らない・おしゃべりにもならない
  人との付き合いが上手くできる薬なんてあるわけがない
洗脳とは怖いものである
  何の疑問も感じないままに
     よく考えたら 悩みの解決する薬も失恋から立ち直る薬も
       ストレスが消える薬もあるわけがないのに
  ただ何となく 解決するような気がして(気がするだけで精神薬にはエビディンスがない)
      飲む~
飲んだらやめられない~やめられない気持ちにさせる薬が精神薬
  麻薬と同じ 覚せい剤と同じ
   依存性の高い薬が精神薬
 前頭葉という脳の部分に作用する
    人格をつかさどる部分
    徐々にその人らしさが消えて行く
そして薬に支配されていく
    テンションが高い時と落ち込みの格差が激しくなっていく
 衝動的に傷つけたくなる
   暴言を吐く
そして 落ち込む
   動けなくなる
やる気がなくなる
 精神疾患でない人が精神薬を飲むと本物の精神疾患者になっていく

   それは 製薬会社の思うつぼ
精神科医の思うつぼ
そして病名が変化していく
  最後は統合失調症か最近は躁うつ病
     という病名に進化していく

 子供の発達障害が流行っている
    大人の発達障害も流行っている
       うつ病は浸透してきたから今度は発達障害に枠を広げてきた

   その場の雰囲気や空気を読んで話や行動ができないと発達障害というらしい
   精神科医が一番場の空気を読まない
      人付き合いも医師は苦手な人が多い
今の発達障害の基準からすると   医師のほとんどは発達障害

   変な人たちが基準を作っているんだから
 正常な人間らしい発達や反応をする人が精神疾患になってしまう

   ここまで洗脳がひろまったら
  自分の命は自分で守るしかない

  精神科に行かないこと

精神薬は飲まないこと

 精神薬は飲まなくても死なない
 
   精神薬は飲むと死の確率が高くなる

  精神薬だけは 飲んだら確実に寿命は縮む

    薬には必ず副作用があるが たいていは症状が緩和するし回復する
精神薬だけは別
  確実に効果がでるのは 副作用だけ    
     副作用は本当に100%出るのが精神薬

その副作用で怖いのが希死念慮
  死にたくなる
 衝動的に死ぬことの敷居が低くなる
死への恐怖心が消えてしまい 死しか考えられなくなる

    タミフルという風邪薬で ビルからの飛びおりが増えたことがあった 
  風邪をひいたひとが飲む薬で・・・うつ病の人ではない
     それなのに 自死してしまう
       それがタミフルの副作用
そのタミフルの数倍の強さで 死にたくなってしまう副作用が精神薬にはある

   その事実を日本人の多くはしらない
 知らされていない   知らないということは罪である

 私はいつのまにか洗脳され
息子を精神科にいかせ精神薬を飲ませ  息子は自死した

 パワハラや過重労働の問題が精神薬で解決するわけがなかったのに

    落ち込んだ息子に精神薬を勧めた
      落ち込みの原因をそのままに・・・

   原因を解決できたら…解決できるような道を示したら
       精神薬を飲ませていなければ
生きていたいのち
     息子に謝り切れない過ちを犯したわたし

   だから伝え続ける  精神薬は自死の促進剤だと・・・

    

悲しみもまた 私のもの

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 8日から熱が出て寝込んでいた

 10日のフォーラムのために 点滴を受け 解熱剤を飲み続け
   なんとか皆さんのおかげで大勢の参加者をお迎えしてのフォーラムを無事に終え
 ~~~11日 夕方から悪化
    40度近い熱が下がらず ひたすらに寝て~寝て~介護してもらい~寝て
19日から やっと ご飯が食べられるようになった
  20日からは 元気いっぱいで 疲れもなく 片付けをして
     スルーしていた書類の作成をして
   なんだか とても元気な自分がいます

  熱があっても 遺族からの相談は待ったなし…最優先
      それが息子への懺悔

  今日は健一の45歳の誕生日
     お寺さんの秋彼岸回向も重なり 午後からお墓参りとお寺さんでの回向

 前回書いた困ったちゃんは
 東京の歴史ある遺族支援の会の80歳の男性のお話

 以前も 岩手県の行政主催の会に講師で行き 
   参加遺族を大声で怒鳴ったという人

  悲しみ比べも平気でする

   自死遺族支援を目的としているのに
      自死遺族を批判する

 遺族の批判をする支援者は 支援をやめたらいいだけのこと

   支援者の都合のいい遺族だけを選んで 支援するのは どうなんだろうか

そして 悲しみを支援する側が比べるのはもってのほか

    それぞれの胸の内で「自分が世界で一番悲しい」と思うのは自然なこと
しかし
 相手のいる場所でそれを声にすることは いかがなものだろうか

  悲しみは 亡くなった人と自分の間に沸き起こる感情
    亡き人と自分の関係性においての愛からの感情

一人ひとり違う
 違って当然

 健一への愛は 夫と私も違う
    同じ感情ではない
だから 悲しみもそれぞれ・・・
   私にとっての私の悲しみは 私が一番悲しい

夫も 夫の悲しみが夫にとっては一番悲しい

 それが普通

ましてや 他者が 人の悲しみを比べるなんて ありえないこと
   それも 支援者が 遺族の悲しみを比べるなんて  とんでもないこと

 悲しみに正しいも間違いもない
 ただただ かなしいだけ

 偉そうに 伴侶を亡くした悲しみは・・・とか
    子供を亡くした悲しみは・・という 支援者がいるが
本を書いている人も多いが
     ひとりひとり悲しみは違う
子供でも夫でも親でも
  1000人遺族がいたら 1000人の悲しみがある 比べられないし 一緒にはできない

あるグリーフケアの専門家がこんなことを言っていた
「遠くから見たら 悲しみは全部一緒」
 「猫もいぬも人間も」
その中で「伴侶を亡くした人が世界で一番悲しい」「これはアメリカでの研究よ」と・・・

   そもそも 悲しみ比べをしない
 ということが グリーフケアでは原則
なのに なぜ伴侶が一番悲しいという悲しみ比べを公開しているのか・・・
    
   一貫性がない
 骨子がない
 信念がない

    それは 科学的に証明されたものでもなく 学問でもないからである

横文字 カタカナ語に惑わされないこと

 自分の悲しみは自分のもの 誰のものでもない自分のもの
     
抱えながら どう生きていくのか・・・
 それもそれぞれ・・・で見つけるもの・・・

 自分以外の遺族の生き方は、参考程度にはなる 

その程度のもの

 11年が過ぎようとしていますが
今も 胸が苦しくなるほど 息が止まるほど かなしい気持ちは消えません

 死ぬまで 抱えて生きようと思います

健一を愛しているから・・・今も・・・これからもずっと・・p1080277.jpg

コマッタちゃんの80歳

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東京には「みずべの集い」という自助グループがある

世田谷と渋谷で交互に開催

   きちんとした「わかちあい」の会である

歴史ある会が必ずしも安心とは限らない

 それは運営するひとたちの人柄にかかわるものだから

    自助グループの良さは 偉そうな人が誰もいないこと
支援者がいないのですから・・・
 相互扶助の精神

 これから郡山に行きます

 熱が39度まで出て 点滴を受けて 今日なんと過熱が下がった

    明日まで 持たせないと・・・
      

悲しみとは

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悲嘆の病理化
 悲しみを病気だという人たちがいる

記憶は消せない  愛も消せない
   愛している人の死だから悲しい

愛するが故の悲しみ
     愛する人が亡くなったら 愛することをやめなければいけないらしい
 愛することをやめなければ 複雑性悲嘆 遅延性悲嘆 
  ということで
治療の対象になるのだそうだ

 保健師さん グリーフケアを推奨している皆さん
  
   悲しんではいけませんか?

以下は
奥さんを亡くした人のブログより


人の悲しみを~プログラムでなんとかしようとする人たち。

その1年以上悲しみが続いたら病気というその1年はいったい誰がどのように決めたのだ。



12年近く経った今でも、

亡き家族の誕生日が来るたび、

共に訪れた記憶のある場所に近づくたび、

共に聞いた曲が聞こえて来る度、

共に暮らした年号の数字をみるたび、

こうして、文章を書いていても、胸は張り裂けそうになる。



頼むから、放っておいてくれ。

悲しみは他人がどうにか出来るものではない。



悲しみが消えて無くなることも苦しいのだ。苦しいが、苦しいから救われる一面もある。

いや、悲しみが消えてはこまるのだ。

悲しみだけではない、怒りや自己嫌悪も消えることなど無い。

傷は消えて無くなることなど一生無い。深く刻まれて自分の一部となる。

悲しみはすでに私の人生の一部だ。



10年以上経過して、直後の血の吹き出るような悲しみは今は無い。

時間薬と、新しい生活の中で、少しずつ未来を足していく。

それぞれやり方、歩みの中でしか、その直後の強烈な痛みは消えない。



怒りや悲しみを綴ることによって折り合いをつける人も居る。

懺悔のような暮らしで、罪を償おうとする人も居る。

子どもの日記を本にして、なんとか生きた証を残そうとする人も居る。

私の活動に参加して、同じ過ちを犯さないように他人をお世話することで心を落ち着けようとする人も居る。



しかし、何をやっても無駄なのだ。悲しみは消えないことは皆わかっている。それでも、何かしないと生きていけない。どこをどうしても割り切れない理不尽な現実の中で生きていくのだ。



面白おかしい人生があるのか知らないが、悲しみに満ちた人生も大切な人生である。それより、人としての一番の不幸は、悲しみも怒りも失うことだと私は思う。



こころの専門家なんて輩に出来ることなどなにも無い。



こんなところまで、医学モデルが出しゃばってくる異常。

悲しみを癒すプログラムなどあってたまるか。

人は、人生はそんな薄っぺらな単純なものでは決してない。