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信じる心とは・・・信仰とは・・・

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臨床宗教師という言葉と資格?が東日本大震災後に東北大の准教授と曹洞宗の僧侶ではじめた
 グリーフケアを学び 信じている僧侶
 お坊さんは 自分の宗派の教えを信じ伝える人ではないのだろうか

阿弥陀様よりもお釈迦様よりも
 人間が考えた「グリーフケア」が人の心を癒やし救うという僧侶
     自分が癒すというお坊さん
お坊さんが救うという考えかた

僧侶失格です

阿弥陀様はどのような人も救う仏様ですから 愚かな僧侶も救われるでしょう
 
がしかし  それでいいのだろうか

テレビも新聞もネットニュースの記者たちも  もう少し知識を得てください

僧侶がグリーフケアだなんて ・・・

  このお坊さんは 金〇という僧侶

 自分の地域の(築館)女性が つなみで亡くなった人が幽霊で見えて困る
  と毎晩寺に来る 見えている・・・
突然死んだから うかばれていない 死んだことを自覚していない
     葬儀しても1回では無理だ
成仏していない 何度も拝んで歩かなければ 亡くなったところに幽霊で苦しんでいる
    といった人

サンケイ新聞に 「おばけ」が被災地で出るということで大きく取り上げられた人
 多くの人が突然死んだから 幽霊が見えるのは普通
     お化けがでるのも普通というコメント
仮設住宅でも なんとなく気持ちが悪い夫婦がいて 供養をした
  水たまりに目玉が浮かんで いる
タクシーに幽霊が乗った
海のうえを歩くお化けがいる
 コンビニに腹を空かせている死んだ人たちが列を作っている
  などなど
あげくの果てに
 広島の原爆で亡くなった人も  幽霊で見える
    という始末

 あなたが見えるの?と聞いたら

いや僕には見えない でも見える人がいるんだから幽霊はいるというお坊さん

  そんな人が 臨床宗教師の講師をしている

 お坊さんたちに聞きたい
自分は何を信じて職業としているのですか

お釈迦様や阿弥陀様を信じていないのですか?

 仏様の教えをそのままにお伝えする人が僧侶ではないのでしょうか

御仏の御教えをお伝えする役目 ではないのでしょうか

  ・・人間である自分が人間を救うと思うのは 御仏の教えに反しませんか?
         傲慢という欲の気持ちがそこにはあります

 私たちよりも 御仏を信じていない宗教者の言葉を誰が信じるでしょう
    自分の信仰に自信がない人たちなのだと思います
自分が信じる心を持っていない宗教者は 自分を大きく見せるための付加価値をつけるために人間が考えた臨床という言葉やグリーフケアという言葉に惑わされ 真に大切なものを見失ってしまうのでしょうね

 何があっても阿弥陀様の御教えを信じています、という宗教者を私は信頼する
     そんな僧侶の言葉を信じます
     それは僧侶自身の言葉ではなく 阿弥陀様の言葉だからです

 臨床の知識も中途半端 僧侶としては失格
   そんな臨床宗教師に
     誰が救われるのでしょうか

息子を亡くした私の心には響かない
   救われもしない
子供を亡くし 67歳になる自分は老いることや死に恐れはない
 淡々と迎えようと思っている
息子さんを亡くしたお父さんが多発性骨髄腫という病気で死の宣告を受けた
 その人も奥さんも淡々と病気を受け入れ治療を受け 死を迎えた
 その時ののお父さんは64歳だった
 子供を亡くして自分も難病やガンで死を迎える人もいる
   子供を亡くしていると 自分は長生きしたと思う
 子供が死んでも生きているんだから
   求めない 何も
 死は身近にあることを子供の死によって知らされる
   阿弥陀様を信じ 西方極楽浄土を信じようと日々お念仏をする
  南無・・・阿弥陀仏
    と 手を合わせる
臨床宗教師は必要ない
  阿弥陀様を西方極楽浄土を信じさせてくれる僧侶がいて欲しいだけ
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自死予防という商売

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言葉は人を癒やすこともできるが 傷つけることもできる
  ひとつの言葉で救われることもあるが、追い込まれることもある
いじめやパワハラ・…多くの自死の原因のひとつとして 言葉の暴力はある
 人間だけが持つ言葉



  健一は大きな声をあげて怒鳴る子ではなかった
大人になって 結婚してからは全くなかった・・・と元嫁も行っていた
 人の悪口もいうことはなかった
もめ事が嫌いだったから いつも「まぁまぁ・・・」と・・・


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  自死した人たちはもめ事が嫌いだったのだと思う
悪口も嫌いだったと思う
   だから自分を責めて 自分が悪いと責め続けて逝った…のだと思う

遺された遺族はどうなのだろうか
   
 生きているということは 自死した人たちよりも根性は悪い
   
社会そのもの・・・

 そんな自分をどう亡くなった人の気持ちをくみ取れるように高められるのか・・・
   葛藤・・・である

人の言動を見て 自分を省みる

いつまでも生きていられると思っているのが人間
 年老いていくことを実感しないのが人間
栄華が続くと思うのが人間

想像力が足りない

想像力は 謙虚さとやさしさをうむ

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人間は死さえもビジネスにする
 いのちのビジネス 自死予防というビジネス
支援というビジネス
 癒すというビジネス
その陰で 犠牲となっていくのは 真面目な人たち
それでいいのだろうか
 しかし現実は 自死のビジネスがもてはやされている
  いかにも ボランティア・・無償の愛の活動のように・・・

恥という言葉を知らない人たちによって自死のビズネスは儲けになる

来年度は自死の予防活動とするビジネスマンたちの懐が豊かになるだろう
  思い通りに税金を使い 
人のいのちをもてあそび
  世間からは 人助けをしている救世主のように注目を浴びる
楽しくて
 やめられない、それが 自死の予防活動という商売

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自分の立ち位置

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前を見て歩いていると思っている
 でも 時々 立ち止まって見る
   自分が前に向かって歩いていると思っても 実は横に向かっていたりする
深呼吸して 静かにたたずむ

自分が歩いている道を振り返ってみる
  そこに誰がいたのか どんな人たちとの出会いがあったのか
今、その人たちはどうしているのか
お世話になった人を忘れないように・・と思う

亡くなった健一がいつも見ている
 亡くなった息子が見ている
亡くなったからの活動
生きていたら活動はしない
 活動にはいつも息子の存在がある
 活動はいつも息子と一緒
健一が亡くなったから 活動しているだけ
自分の力ではない
自分のやる気でもない
 ただただ 健一へのお詫びの活動
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 自死遺族としての活動
子供を亡くした親としての活動
  それ以外の活動はしない

 全国自死遺族連絡会も自死遺族等権利保護研究会も
 藍の会も遺族の茶話会も藍色のこころサロンもつむぎの会も
   ご住職が開催してくれている法話の会も
      みやぎの萩ネットワークも 私の立ち位置はいつも遺族として
  それ以上にはならないし、なれない

専門家の皆さんの研修会の講師に呼ばれる時も いつも自死遺族としての立場からの内容
   自死遺族としての自分の体験とたくさんの遺族のお話を聞かせてもらった経験
   自分だけではない多くの人たちの 体験的知識としての話しをする

  過労自死の活動もしない
   ゆるやかにつながりはするが 中心としての活動はしない
    息子は過労とパワハラだったと思うが
      裁判もしていないし 労災申請もしていない
(嫁が音信不通になったので・・・できなかった)
  だから 積極的に過労自死の活動はしない
    協力はする
  連携もする
弁護士も紹介する
 裁判の傍聴にも行く
でも中心にはならない・・・
自分は 自死遺族として自助グループとしての活動をすると決めている
  総合支援の活動をすると決めている
 立ち位置は 崩さないで活動を続けようと思っている
  前が見えなくなるから・・・i320[1]


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  岡先生に久しぶりに会いに行く
     前の日に法政大で開催される野田先生の講演を聞きに行き、泊り・・次の日上智に・・
        道を踏み外さないように 時々相談に乗ってもらう
   
健一に ガッカリされないような活動を続けようと思う
   息子は いつもそばにいる
 そう信じている

なぜか イラつく・・・なぜかな

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ゾクゾクする喜び
 うれしい\(^o^)/
ステキー(*^-^*)
すばらしい~~~~
楽しかった(*^_^*)
 ワクワクうれしい~~~
チョー面白い
   しあわせいっぱい~~~

という言葉で溢れている自死遺族のfacebookを見ると
気が滅入ってしまう
胸が痛くなって イラつく

コメントはいつもハッピー ルンルン

  不愉快な気分になってしまう

 なぜかな・・・といつも思う
子供といつも楽しそう
 友達といつも楽しそう
 親戚といつも楽しそう
海外旅行や国内旅行をしていつも楽しそう

別に羨ましいわけではない

でもなぜか イラつく

 なぜかな・・・

 私の 心が狭いだけなのかな

悲しみは愛しさ・・・身体の一部

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自死遺族の人たちに 元気に生きて欲しいと思って活動をしてきた
 悲しみは消えない
悲しみは軽くならない
悲しみは薄くならない
悲しみは楽にはならない
いつもいつもいつも 身体の一部になってしまった
 身体と同化している
寝ていても 夢の中でも 彼が亡くなったこととして意識している
 抱きしめても会話しても 亡くなったのに・・・と想いながら夢を見ている
お風呂に入ってもご飯を食べても テレビのニュースをみても
いつもいつもいつも 息子は私の中にいる
どんな時も息子は傍にいる
悲しい気持ちは今も深く深くある
胸がつぶれるほど 息ができないほど 苦しくなる時もある
悲しすぎて 歩けなくなる時もある
体中の力が抜けていくときもある
表面は元気いっぱい
幸せな人よりも元気に見えると思う
笑顔で走り回っている
心の中の悲しみを表情に出して 幸せな人に向かって泣いても仕方がないと思っている
 遺族同士なら 笑い~~~涙し~~~怒る~~~泣く・笑う・・・
 同時にしても誰も不思議に思わない
受け入れる 
 21歳の若者が遺族の悲しみがわかる・・と発言していた
「そっか」 結婚もしていなくて 子供も産んだことがなくても子供を亡くした気持ちがこの人はわかるんだ・・・と思った
 言葉が安っぽい
自死で子供を亡くした気持ちが わかると言える人たち・・・すごいなぁ~
 わかるという言葉の意味がたぶんわからないのだろうと思う
その人の悲しみはその人のもの
誰のものでもなくその人のもの
私の悲しみは 私と息子の間にあるもの
私が息子を亡くして悲しいと思う感情が生まれるのは 私と息子の間だけにあるもの
 私以外の人と息子の間にある感情は私にはわからない
 人の感情というのは誰のものでもなく その人個々・一人一人のもの
誰かがわかるというものではない
私は楽に生きようとは思っていない
息子が死んで 母親の私が楽に生きようなんて 私は許せない
苦しく、悲しく、切なくていい
それが息子が死んだことの私の報い
受け止めて生きなければならないと思う
 それでも 自分に甘い
美味しいものも食べたいとおもう
 大声で笑うこともある
洋服も欲しいと思うこともある
 たまには 酒も飲みたいと思う
欲望が芽吹く
息子は「しゃ~ないな カァチャンだから」と苦笑いしていると思う
  顔が浮かぶ
ごめん・・・許して また頑張るから・・・という私
 息子に許されて生きている
愛する人を突然に亡くした悲しみを「ケア」しようなんて思う人たちを見ると 何て傲慢な人たち、と思う
 せめて 阿弥陀様の教えなら  受け入れようと思うけど
    人間ごときの考えで 言葉にならない悲しみをどうにかしようなんて
        傲慢そのもの
人智を超えた大いなる存在でさえ 救えないこともあるのに・・・
  自分の悲しみは自分で抱えて自分なりの向き合い方で生きて行くしかない
    生き方や悲しみの抱え方の光となるのは 大いなる力を持つ存在を信じること
 信じさせてくれるのが宗教者
  教え説いて・・・光のある方向に導いてくれる人たち
そして同じ悲しみを持つ人たちが 一緒に歩いていることを知ることも大切
一人ではない 自分だけではない
  10年過ぎた今も深い深い悲しみと共に生きている
    息子と共に
息子からの贈り物は悲しみと共に生きる力と慈しみという生き方を教えてくれたこと 
   受け止めて活かして生きたいと思っている

自死遺族の悲しみにだけ興味がある支援

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書くという気持ちになかなかならず 今日まできてしまった

関西に行ったり 東京に行ったり
 また日々の相談も多く 原稿書きもあり 時間がない・・・?ことも・・・

というより
 自死遺族支援ということひとつをとっても 
  「自死遺族の悲しみ」だけに注目している支援者たちにうんざりが10年続いて・・
    言い続ける気力が削がれている自分がいる

 国ができる いや 国にしかできない自死遺族支援がある
   法律の専門家にだけできる支援がある
宗教者にしかできない支援がある
 ボランティアだからできる支援がある
   県や市町村にしかできない支援がある

遺族だからこそできる支援がある

  それぞれが分担して連携したら総合支援になる

  と言い続けてきた 要望し続けてきた

なぜ当事者の要望を無視して 全部が「こころ」「かなしみ」の支援をしているのでしょう

「悲しい」話を聞きたいのはなぜでしょうか
   自死遺族の悲しい話しになんでそんなに興味があるのでしょうか

息子が死んだ話を聞いたいですか?
  詳細に語りましょうか?

  

 遺族だけで「わかちあい」が大切です
  といいながら
 遺族以外の人が傍で聞き「大変ですね」「お辛いですね」と
   憂い顔で聞いています
遺族ではない人が傍にいて 遺族ではない人が遺族同士のわかちあいが・・・という
   なんで傍にいるのでしょうか
遺族同士のわかちあいではなく 支援者が遺族の悲しい話を聞くというスタイルです
  話しを聞く人がいる
   悲しい経験がない人が
 かなしい人の悲しい話を聞くという会・・・それはわかちあいではありません
  わかちあいがいいということではなく
   それは わかちあいとはいいません

 同じ苦しみ同じ悩み同じ悲しみ   同じ喜び同じ・・・共通するものがないと
わかちあえないのです
 共通するものがあってお互いに分かち合う それがわかちあいです

美味しいものがあって それを同じように美味しいと思える人たちで分かち合って食べて 美味しいという気持ちを共有する
 それもわかちあいです

 悲しいという気持ちがない人と かなしい気持ちでいっぱいの人と どのような気持ちを分かち合えるのでしょうか
    支援する人 支援される人 という区別があります

それが悪いとは言っていません
     それは分かち合いとは言いませんと主張しているだけです

支援してほしいと思う遺族もいます
  悲しみのケアをしてほしいと思う遺族もいるでしょう

 幸せな人たちに かなしい気持ちを聞いてほしいと思う遺族もいるでしょう

  それは支える人 支えられる人 という区別があります

わかちあいは
 相互扶助 お互いさまです

   支える人 支えられる人という区別は存在しません

そして悲しんでいられない人もいます
   様々な問題が襲い掛かってきて 涙を流す時間もない遺族もいます
 泣いていられない遺族もいます
    そんな問題を具体的に解決してあげることも支援です

  亡き人を想い悲しめる時間を作ってあげることも支援です

悲しめないほどの問題解決
   それは 専門家の支援が必要です
    国にも是正してほしい問題が山ほどあります

  遺された人たちが 普通に生きて行くために・・・

  具体的な問題の解決には 誰も手を貸さず
    「かなしいお話を・・」って・・・

こんな社会の仕組みだから自死が減らないんです
    減っているなんてデーターは 操作されているだけ
不審死と行方不明者の人数が増えていますから・・・    

日本人は 都合の悪いことは みてみないふり
    当事者の声が届かないのが日本の社会
自分の身に降りかからないと 動こうとしない
   私もその一人だった
息子が逝き
 闘い続けている・・・声をあげつづけてきた
  10年が過ぎ
・・・・・モグラたたきのように 叩いても叩いても  意味不明な支援が構築される
   自死遺族ビジネス  自死予防ビジネス
       が 増えている 
支援との闘いをいつまで続けたら 自死遺族が生きやすい社会になるのだろう