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自死への差別

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  死んだ瞬間に  人間は怖い存在となる
    なぜ
  小さい頃 死者は怖いとおもっていた
   大好きな人が亡くなっても
        愛する人が亡くなっても
   息をしなくなった瞬間から  恐怖心が芽生えるのはなぜ

      不思議な気持ち

   健一が死んだときは  怖くなかった
       それから 母も父も亡くなったが 怖くなかった
     
     育ててくれた母は  亡くなった人にも優しかった

    昔おくりびとなんて職業がない頃  母は女の人が亡くなると
                 すすんで亡き人を きれいにしてあげ、身支度をしてあげていた
       さちこ 死んだ人は怖くないよ 何にもしないよ
         生きている人のほうが怖いんだよ・・・と    
      母は
        よくいっていた

      穢れた死
        という意味がわからない

    司法の考えに  自死は穢れた死であるというのが理解できない
         自死という死は
     他の死と違い   気味が悪いということでの瑕疵 心理的な汚れになる・・・という意味がわからない
         瑕疵に心理的ということが適用されることが
            理解不可能
     
    人種差別と同じである

      黒人は白人よりも汚いもの・・・という差別と同じ

        黄色人は白人よりも汚いもの・・・と差別されたことを日本人はわかっていない

        差別された人たちが  またその差別された人同士で差別している

                  死んだ人を  死に方で差別する ことは
                      死者へ 唾を吐いているようなもの
         どのような死に方が 立派なのか・・・
            天寿全うしたらいいのか
     殺人をしても 天寿全うなら
         自死した人よりも 立派なのか・・・

      自死者への差別は
 生きている人の疚しさだと思う
         
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自死の 実人数は10万人?!




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毎日自死の相談がある
  知人が自死 同僚が自死
     子供が自死
  夫が自死
減っていないことを実感する
  予防や防止対策の効果がないことを痛感する
  行方不明と不審死の半分を合わせると
(WHOでは自死に含むとしているが日本は含んでいない)
毎年 10万人を軽く超える
      自死者
   
  素晴らしい法案だ!素晴らしい対策だ!
    すごい活動だ!
それは
  自己満足ではないのだろうか
      と 自己嫌悪でいっぱいになる
 自死の予防は防止は 派手にやるものではない
  にぎやかにお祭り騒ぎのように 広報するものではない
   苦しい人に悩んでいる人に 
     どうしたら「生きて欲しい」「生きているだけでいい」
        「みんなで 何とかするから・・・・」
    という声が届けられるか・・・届く方法は?
 社会の仕組みは こころ優しい人には やさしくない
    人に気を使い
      人を思いやる人は 暮らしにくい
 無責任な方が
   生きやすい・・・・
こころ優しい人が生きられる社会
時間のかかる社会の仕組みの是正のための活動と
   今、いま苦しんでいる人の相談受ける仕組みと
    両輪で行わなければ意味がない
  一人ひとり ひとつひとつ
     無駄になろうが 裏切られようが
       誠意を込めて 受けるしかない
  
 自死は減っていない
  
  児童生徒・青年期から高齢者まで
     うつ病の早期発見・早期介入・早期治療
    をすれば
   減る・・・・・・と 断言してきた自死の対策の専門家たちは
       どう感じているのだろう
 個人のせい・家族のせい・・・とでもいうのでしょうか
 それとも
まだうつ病の患者が精神科に行っていないから・・とでも・・・・

  人を思いやる心が持てる人が増える活動
     人にやさしい気持ちを持つ人たちが増えて行く活動

   家族にも部下にも同僚にも 生徒にも患者にも
      自分よりも社会的に弱い立場の人たちへの思いやり

  お互いに思いやる気持ち  

      しかし
        派手な活動のほうが 社会の受けがいい

      これでは
        自死は減らない

    弱いから死んだのではない
         愛情がないから 見殺しにしたのではない

       社会はやさしい人を自死するほどに追い込み
  死んだら死んだで
     穢れた死だといい
          気味が悪いと言い   遺された人たちをも責め続け追い込む
         
      どこまで 人を追い込めば満足する社会なのでしょう

  かなしい

          

私の悲しみ

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もうすぐ 健一が逝って 10年
   今も悲しみでいっぱい 涙も枯れることはない

胸が痛くなる  締めつけられて 息苦しい
      心臓がパクパクしてる
    
   元気で暮らしているが  呼吸を忘れるほどの悲しみも健在

   会えないことが さみしくて切なくて どうしようもない
         身震いがする さみしくて苦しくて

    活動としていることに追われる毎日

      フッと健一を忘れているときがある…と思うのだが  やっぱり頭の中にある・・・
               ことに気づく

     あの子は  いつもいつも  そばにいる

 時には気配を強く  時にはそっと・・・・あの子らしく 静かに穏やかにゆっくりと

     あんなに死にたくない・・・と 言っていた健一が なぜ 頑張って死んだのだろうか

  答えはでない

     ずっとこれからも なぜ…が続く

        悲しみと共に 生きて10年

      健一は 遺された私たちの悲しみをみて どう思っているのかな・・・

          気配を感じても 何を言いたいのかは伝わらない

       あの世とこの世の コミニュケ―ションは   難しい

   生き返らないかなぁ~   

自死への差別と偏見

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自死と殺人があった物件だけが
    賃貸の場合は 次の借り主に殺人があったことや自死があった物件ですよ・・と伝えることが義務となっている
      不動産の売買においても 買う側に伝えなければならないということが義務となっている

なぜ・・・その理由は
   殺人や自死は 穢れた死・おぞましい死・嫌悪感のある死であるから
     気持ちが悪い・気味が悪い・祟りがある・
心理的な瑕疵・・・汚れている汚い…という理由である

   亡くなって すぐ発見されても またまだ死んでいなくて救急車で搬送されて病院で亡くなっても・・・
       気味が悪い・・・・・・・・・とされてしまう

  従って 価値が下がるから  家賃を下げる 売値も下げる
                土地の値段も下げる

     すぐに次の人が借りて…1か月で出て・・・また次の人が借りる・・・ときは もう告知義務はない
     極端にいえば 1か月で・・・・告知義務が消える場合もある
 また 30年だれも借りずに 30年後に借りる人には告知しなければならない

   気味が悪いなら 1か月のほうが30年よりも気味が悪いと思うのだが
     そうではないらしい

      孤独死によって半年後の発見  腐敗して悪臭が漂っても
           次の借主には 孤独死のことは告げなくていい
     
      法律の中に 自死は故意の死であるから…と書かれていることも問題である
国が大綱で
自死は社会的要因によって追い込まれた末の死である・・・と 明言している

     追い込まれた末の死   なら  ナゼ 故意の死という文言を是正しないのだろうか

      死にたくて死んだ・・・とでもいうのだろうか

     死にたくて死ぬ人なんているのだろうか

       ニコニコ笑って   ハッピーな気持ちで死ぬ人なんているのだろうか

      社会はやさしい人を追い込んで 
            追い込まれて死んだ人を また責めて
      遺された人のことも責めて

        責めて責めて責めて  責め続けて

     社会への賠償金まで請求
           どこまで いじめたら気がすむのだろう

           人にも人の命にも やさしくない日本

        孤独死の腐敗した遺体のあった部屋と
         自死があった部屋

      の違いは何でしょうか

   人は全員死ぬ   どこで死ぬかはわからない
  バスの中で死ぬ人もいる…ホテルで死ぬ人もいる
        レストランで死ぬ人もいる
   風呂で…トイレで・・・
  どこで息をひきとるかは  誰にもわかりはしない

     処刑場の跡地が住宅地になっていたりする

    お墓のあった土地にマンションがあったりする

        昔は家で亡くなった
    
     死の形での差別・・・が  ある

     人は平等ではなかったのだろうか

      死んだら人間ではないから 平等ではないのだろうか

   でも 死んでも人間だから 火葬の義務があり 
 その辺に捨てたら犯罪になるのではないだろうか

      矛盾だらけ 論理的ではない
 

   殺されて死のうが  自ら死のうが  災害で死のうが事故で死のうが
     亡くなった人を考えたら 死んだ・・のである…それだけ・・・生きていない・・・それだけ

      なぜ 自死が穢れた忌まわしい死といわれなければならないのだろう

      穢れているのは 生きている私たちではないのだろうか

    忌まわしくおぞましいのは  生きている人間ではないのだろうか

    死者に唾を吐くような  行為を私たち社会はしている
        
      死んだ人たちを尊ぶ気持ちを忘れる行為は
          自分に唾を吐くようなものである

       

自死でしたと普通に話してほしい・・・

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 自死という形で亡くなったことを  
病死や事故死と同じように話せる遺族が増えて欲しいと願っている

      私は 息子が悪いことをしたと思っていない

  世間に迷惑をかけたとも思っていない

     恥ずかしいとも思っていない

     むしろ  私も含めた社会が 息子に悪いことをしたと思っている

        息子を追い込んだ 罪は 社会にあると思っている

   だから

     普通に  息子の自死を話す  聞かれたら誰にでも話す

      自死で亡くなったことを 隠していきようとは 思ったこともない

    通夜の席でも 葬儀でも 親戚も近所にも
       普通に話した

        息子は死んだ

       それだけで  いっぱいいっぱい

     自死だろうが 事故だろうが  どうでもいい
    死んだことだけが
        問題であり・・・悲しい

      自死遺族には 隠れて生きて欲しくない

      普通に 凛と毅然と生きて欲しい

       やさしい家族だという誇りを持って

写真

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全国自死遺族連絡会

     全国自死遺族連絡会

   自死遺族による自死遺族のためのネットワーク
全国自死遺族連絡会は、自死遺族の相互交流を深めることにより遺族自身が
まず元気に生きていくことを目的とする会です。
そして
自死した私たちの大切な人のその命を無駄にすることなく
優しいひとがやさしいままで生きられる世の中に変えていくことを目指します

*本会の主な活動*
1. 自死遺族の相互交流を深めることの諸活動
「つながりあう」
2. 自死遺族が運営する自助グループ活動についての情報交換
「支えあう」
3. 自死や自死遺族に関する情報発信と社会啓発活動
「経験を伝える」
4. 自死遺族に関係する機関等との情報交流
「声をあげる」
5. 自殺予防活動 「生きて、と願う」

 
◆全国自死遺族連絡会の活動と会員の活動
✤自死遺族の個人会員 全国47都道府県 2,900人(2015・7・1)
✤会員が立ち上げている自助グループ本人の会 23都県50箇所
 準備中3箇所
25か所は地方自治体と連携しての開催
✤会員による自助グループが自死対策推進会議等に参画している自治体
山形県・宮城県・仙台市・角田市・茨城県・栃木県・世田谷区(東京)・島根県・鳥取県・内閣府
✤自死遺族本人の会「わかちあい」の集いの立ち上げ支援
✤全国自死遺族フォーラムの定期開催
2008年度から毎年開催、今年度9月・8回目の開催「東京・きゅりあん」
✤ 自死遺族等の差別的問題シンポジュウム
 「自死遺族等権利保護研究会」主催 
 2015年5月第4回目開催  「衆議院議員会館」
✤自死遺族のための交流会と勉強会の定期開催
 東京・大阪交互開催
✤精神科医療の勉強会と相談会
✤24時間365日、自死遺族の総合支援のための電話相談受付
✤手紙・メール・FAX・電話・個別面談での相談受付
✤立場別の自死遺族のつながりの構築
✤裁判支援や労災申請等の支援
✤自死後に起こる差別的問題の解決の法的支援
✤死別後の手続きの支援
✤精神科医療の相談支援
✤労働問題やパワハラ、いじめ、借金問題等の問題解決のための支援
✤自死遺族の声の本の出版や冊子の配布
✤様々な書籍への執筆活動
✤自助グループの研究者(上智大学教授)との連携活動
 国内・海外での学会論文発表(協力・共著)
✤宗教者との連携活動(法話の会や茶話会・相談会)
✤自死遺族の自助グループの会の開催支援
✤子どもを亡くした親の会の開催支援
✤過労死・過労自死支援の活動
✤各種講演会
✤精神薬の薬害を考える会・精神医療被害連絡会との連携
✤社会福祉士会・弁護士会・司法書士会・臨床心理士・宗教者・議員・
マスコミ関係者・大学の教授・精神科医・カウンセラー・子ども支援団体
自死の防止活動団体・産業カウンセラー・との連携
✤「会いたい」明石書店 発売
✤自死遺族主催のフォーラムやシンポジュウム、講演会、連続講座の開催
✤自死のパネル展「私の中で今、生きているあなた」働くもののメンタルヘルス相談室との共催
✤2008年から
国会議員を通して
内閣府・厚労省・文科省・国交省・警察庁・国税庁・法務省等に要望書の提出と話し合い。
✤野田聖子衆議院議員代表世話人「自死遺族等支援を考える」議員連盟(共催)
✤「兄妹姉妹の集い」「子どもを亡くした親の集い」「伴侶を亡くした集い」
 「親を亡くした集い」 のネットワークとの連携
✤厚労省・臨床心理士会・社会福祉士会・弁護士会・司法書士会・地方自治体・増上寺・京都仏教会・北日本看護学会・JR西日本あんしん財団・宗教連合会・東北大等々での講演多数
✤震災で子どもを亡くした親の会の立ち上げ支援
✤活動は映画やテレビ、ラジオ・週刊誌や専門誌、新聞各社等々全国で数多く取り上げられている

◆全国自死遺族連絡会の会員による自死遺族の自助グループ
わかちあいを目的とする集い

✤ 北海道札幌市「ノンノの会」
✤ 青森県青森市「空の会」
✤ 秋田県秋田市「結いの会」
✤ 岩手県盛岡市「循環の会」
✤ 山形県山形市「青い会」...
✤ 宮城県仙台市「藍の会」栗原市「クローバーの会」石巻市「たんぽぽの会」      
  大崎市「菜の花の会」大河原市「マロニエの会」
気仙沼市「瑠璃の会」
✤ 福島県郡山市「えんの会」福島市「えんの会」
✤ 埼玉県さいたま市「なないろの集い」
✤ 東京都世田谷区「みずべの集い」渋谷区「みずべの集い」
✤ 茨城県水戸市「さざれの集い」
✤ 栃木県宇都宮市「オレンジいろの会」鹿沼市「ひなたぼっこ」
✤ 神奈川県横浜市「虹のかけはし」川崎市「カーネーションの集い」
✤ 新潟県新潟市「逢うる」長岡市「とまり樹」
✤ 長野県長野市「やまなみの会」松本市「やまなみの会」
上田市「やまなみの会」
✤ 石川県金沢市「ほっとの会」
✤ 静岡県静岡市「心の絆をはぐくむ会」
✤ 鳥取県鳥取市「コスモスの会」
✤ 鳥取県米子市「逢いたい~ぼちぼちの集い~」
✤ 広島県広島市「小さな一歩ネットワーク広島・希望の会」
✤ 広島県三次市 「逢いたい~ぼちぼちの集い~」
尾道市「逢いたい~ぼちぼちの集い~」
✤ 島根県安来市「逢いたい~ぼちぼちの集い~」
雲南市「逢いたい~ぼちぼちの集い~」
✤ 島根県松江市・出雲市・浜田市・益田市・大田市・しまねわかちあい「虹」
✤ 山口県岩国市「木洩れ陽」
✤ 福岡県久留米市「九州モモの会」
✤ 沖縄県那覇市「くくむいの会」
✤ 東京・兄弟姉妹の会「テルテル」
✤ 大阪兄弟姉妹の集い
✤ 大阪市・名古屋市・東京・札幌市「ナインの会」
(キリスト教の信徒の自死遺族の集い)
◆会員による支援の会
自死遺族の集い
✤ 神奈川県横浜市「あんじゅ」自死で子供を亡くした親の集い
✤ 大阪府枚方市「ふきのとう」自死遺族の集い
◆自死以外の遺族も含む様々な集い
✤ 過労死・過労自死「東北希望の会」
✤ 宮城県仙台市・石巻市・気仙沼市・子供を亡くした親の会「つむぎの会」
✤ 宮城県仙台市・岩沼市・石巻市・気仙沼市「法話の会」
✤ 宮城県仙台市「遺族の茶話会」
✤ 宮城県仙台市「藍色のこころサロン」
✤ 広島市「こころのともしび」
✤ 奈良県葛城市「法話の集い」
✤ 兵庫県尼崎市「法話の集い」
✤ 北九州市「KAZU いのちと森・総合研究所」
✤広島市「うつ症状のある方またはその家族の会」
✤大阪市「伴侶を亡くしたネットワーク」
◆法的支援の会
✤ 自死遺族等権利保護研究会
✤ 自死遺族等二次被害相談センター
✤ みやぎの萩ネットワーク 

日本の自死遺族の自助グループ



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国際会議・会議録に出る論文の和訳





自死遺族の会:グリーフケアではなく、エンパワーメントに向けて
Tomofumi Oka1, Sachiko Tanaka2, Hidehiko Ake2, and Shōko Kuwabara2
1. 上智大学
2. 全国自死遺族連絡会

要約
(省略)

はじめに

日本では1998年以来、自死者が3万人を超えた。2006年、自殺対策基本法が施行され、全国各地に専門職によるサポートグループがつくられるようになった。しかし、その集まりに満足できない遺族たちが自分たちで自助グループをつくりはじめた。2008年、全国自死遺族連絡会が発足、1300人以上の遺族が集まる。2011年7月現在、全国には23の独立した自助グループがある。各グループは毎月あるいは隔月のペースで例会をもっている。
遺族の会は専門職の集会とは違った形で開かれている。そのため遺族の会が社会的に認められることは難しかった。Bormanら (1976)が言うように、自助グループは援助を提供することについて、自分たちの役割や立場を社会に認めてもらうという課題に対処しなければいけない。そして、そのときに使われるのが、専門職による認知である。しかしながら、遺族の会では、そのような認知を得ることが難しかった。なぜなら彼らのミーティングの進めかたが専門職によるものと非常に違っていたこと。それに遺族の会のリーダーが専門職によるグリーフケアに批判的であったためであった。

この論文の目的は遺族の会で慎重に行われているプロセスを描き、その例会の長所を論じることである。それによって、専門職や一般市民に、遺族がどれほど遺族の会を信頼しているかを示す。これまで自死遺族の自助グループの研究はほとんど行われていない。その理由としては、遺族の会が発足したのは5年以内の短い期間にすぎないために、調査が行われてこなかったこと。また、遺族の自助グループについて研究したという論文があっても、それは専門職によるサポートグループについて調査をしたものにすぎなかったからである。


研究方法

2008年9月、自死遺族の会の二人のリーダーが、岡の研究室を訪れ、その会の研究について依頼をした。その研究の結果がグループの有用性を証明し、それによって関係する専門職がグループの認知をするようになることが望まれていた。その時点で、岡はその研究においてグループのリーダーが積極的な役割を担うことを提案した。その結果、本研究は、社会福祉の研究者と自助グループの3人のリーダーによる共同研究の形となった。
研究のデータは、社会福祉の研究者(岡)は、自死遺族連絡会に集うリーダーやメンバーに会話的なインタビューを行った。3人の自助グループのリーダーは、自分がリーダーとしてかかわっている3つの自助グループに加えて、他の自助グループにも参加した。その数は16グループであり、これは日本にある23の自助グループの70%にあたる。また23グループすべのリーダーと対話してきた。また3人のリーダーは多くの専門職主導のサポートグループやファッシリテーター養成の講座にも参加し、そこで観察し、また資料等を集めた。


結果

専門職主導のサポートグループと比較することによって、自死遺族の自助グループには以下の6つの特徴を共有していた。このような共通の特徴は、グループのメンバー間の活発な交流によって生まれたと考えられる。その共通点とは、1)自発的参加、2)外部者も「客」もいない、3)日常生活との連続性、4)グループに分かれること、5)医療的(回復)モデルを使わないこと、6)恒常的なコミュニティの存在である。

1. 自発的参加

自助グループは、個人が自分の意思で自発的に参加することを重視している。たとえば、グループのリーダーは、遺族がミーティングに参加することを強く促したりはしない。誰かがミーティング会場のドアの付近でうろうろしていたとしても、声をかけない。その人が自分から声をかけてくるのを待つのである。また、本名や住所を言わなくてもグループに参加できる。たとえ住所を知らされても、グループのリーダーは次回のミーティングへの「押しつけがましいお誘い」はしないように心がけ、ミーティングに関する必要な情報を送るだけにとどめる。というのも、リーダーは、自らの経験から、遺族はそっとしておいてほしいと思うことがあること、自分自身の意思でミーティングに参加するかどうかを決めることが大事だということを知っているからである。
それに対して、サポートグループは遺族のミーティングへの出席を強く促している。グループによっては、最初に来た人の本名と連絡先を聞きたがり、その情報を次回のミーティングに利用したいと考えている。さらにスタッフは、一つのミーティングが終わると、次のミーティングを忘れないように出席を促すための訓練も受けている。このような「押しつけがましい態度」が、一部の遺族を苛立たせている。

2. 外の人も「客」もいない

日本の遺族の自助グループは、自死遺族だけを受け入れる。すなわち、当事者ではない人や「客」はミーティングに出られない。すべての出席者は、いろいろな仕事、たとえば、会場の準備や清掃、お茶出し、お菓子の提供などによって、会の活動に貢献することが許され、また期待もされている。
一方、専門職主導のサポートグループでは、遺族は、積極的な参加者というよりも「客」として招待される。彼らは専門職やボランティアのもてなしを受け、お茶やお菓子をいただき、ときには豪華な昼食まで提供される。遺族がスタッフを手伝おうとすると、その申し出は丁寧だが、きっぱりと「好意的な」言葉(たとえば「いえいえ、ゆっくりと座っていてください」)で断られる。

3. 日常生活との連続性

毎月の自助グループの例会は数時間にも及ぶことがある。たとえば昼すぎから始まり、夜まで続く。そして、それはいろいろなセッションに分かれる。典型的な例をあげれば、集まりは、正式な開始時間前から、会場に着いた人たちどうしが、くつろいだ感じで話し合うことで始まる。初めての人にはリーダーが言葉をかける。こうして出席者は自分たちが歓迎されていることを感じるのである。開始時間になると、正式な例会が始まる。出席者は各自、簡単な自己紹介を全体に行う。そのあと、スペースが許せば、出席者は小さなグループに分かれ、後述するように、そこで深い体験と気持ちを語り合うことになる。この分かち合いの時間が終われば、小さなグループも解散し、また大きなグループになる。こんどは、互いに自由におしゃべりする時間になる。この時間に、お茶やお菓子が配られる。リーダーたちは、この時間を「クールダウン」と呼び、気持ちを日常レベルの思考や情緒、行動に戻していく時間であるとしている。こうして正式な例会が終わったあとは、都合がつく人は、喫茶店やレストラン、飲み屋などに設けられた席に招待される。当事者ではない人も、この集まりには参加してよい。たとえば、マスコミ関係者がメンバーの話を聞きたいというときには、この席に参加するのである。このような例会の形は、グループのセッションと、日常生活との連続性を確保していると考えられる。この連続性は、メンバーが徐々に自分の深い気持ちを小さなわかちあいのグループで表出することを助けるだけではなく、そのあとは「クールダウン」の時間に普段の生活の行動、つまり人目につく場所(喫茶店など)でも問題のない行動にまで戻ることを助けている。
遺族のなかには、サポートグループには、このような構造がないことを不満に思う人がいる。例会開始前に来ても、会場のなかにいようが、外にいようが、一人で待たなければいけない。それは病院の待合室で待つようなものなのである。ミーティングが終わったなら、そのあとは、スタッフは場所を片付けなければいけない。専門職は多忙で次の予定があるし、建物も精神保健サービスのために使われている場所であることが多いので、使用の予定がつまっているのである。その結果、出席者のなかには、ファシリテーターが終了の時間を告げると、すぐに泣き止み、涙をふきながらひとりで部屋を立ち去るひともいた。別のグループでは、終了になるといつも感想を書かせられ、グループの評価を求められる。このように、出席者の治療的なセッションと日常生活の間には大きなギャップ(隙間)があるのである。

4. 小さな分かち合いのグループ

前述のように、参加者は深い体験のわかちあいのために、小さなグループに分かれる。分け方は、だいたい自死した人との関係によって行われる。つまり、親、子、配偶者の立場の人は通常別々になる。というのも、たとえば、ある女性は、自死した自分の息子の嫁に対する怒りや恨みを、夫を自死で亡くした立場の女性がいる場では表現することが難しいからである。このような小さなグループの人数は6人または8人以内が適当だと考えられている。グループの進行には特別な訓練や知識は不要だと考えているので、その役目を担う人を見つけることは難しくない。
 それに対して、専門職主導のサポートグループは全員参加の、大きな一つのミーティングを開くことが多い。これはおそらく訓練されたファッシリテーターの数に限りがあるからだろう。このようなミーティングの進行をするには高いレベルの技術が要求されると考えているのである。しかしながら、すでに述べたように、遺族は亡くなった人との関係が異なる遺族とは経験を分かち合うことが難しいと感じることがあり、遺族にとっては全体で話し合うことは理想の形ではない。また遺族、とくに家族を亡くしたばかりの遺族にとっては、長時間、自分の体験を分かち合うことなく、他の人の話を聞きつづけることは辛いことである。

5. 医療的(回復)モデルを使わない

専門職とボランティアは一般に医療モデル、あるいは回復モデルを使っていて、遺族の悲嘆からの回復の重要性を強調している。しかしながら、このモデルにはいくつかの問題点がある。
まず、医療モデルは遺族をしばしば不快にさせる。たとえば、サポートグループのパンフには、心身や行動の問題点を列挙するだけではなく、遺族はそれらの問題をもちやすいと述べている。これらの問題は、慢性病の説明と同じように並べられている。典型的なのは「記念日反応」である。愛する人を自死で喪った日がくるたびに、遺族は強い悲嘆反応を示すというのであるが、そういうことがサポートグループでは説明されている。自助グループのメンバーは、自分たちが精神的に弱い人間だとレッテルを貼られていることに驚き、憤慨している。またこのような問題の長いリストは、これらの問題がある時期に起こるだろうと予告されているようで、読むと不快になるという。自助グループの場合、メンバーを病人のようには扱わない。悲しむことは自然なことであると強調する。遺族は悲しみから回復しなければならないとする、あらゆる理論は拒絶されている。そのかわり「回復は不可能だ」「悲しみは私たちの身体の一部だ」と、悲しみとともに生きることが提案されている。
医療モデルの二つ目の問題は、それが遺族の社会的、経済的な問題にかかわってこないということである。サポートグループのスタッフは、受け入れることを訓練されている問題(すなわちグリーフケアの枠組みでとらえられる精神的、心理的問題)以外は、受け入れない。逆に自助グループは、メンバーが生活のなかで遭遇するどんな問題でも、金銭的問題、差別の問題を含めて、受け止め、取り上げようとしている。
最後に、サポートグループは「トラブルメーカー」を非常に警戒している。サポートグループのファッシリテーター養成講座では、決まったように、ミーティングの場を乱し、他の遺族を傷つけるような態度をとる人にはどのように対処したらいいかが議論される。こうした態度は、専門職やボランティアが、遺族を深刻な精神疾患をかかえた人であると考えるかぎり避けられないものかもしれない。それに対して自助グループのリーダーは、そういう問題に対して対策をとる必要性を感じていない。なぜなら、そのようなトラブルメーカーには会ったことがないと主張するからである。このような人がいないということは、自助グループが自発的参加を重視するという事実と関係があるのかもしれない。

6. 恒常的コミュニティ

自助グループのリーダーは、メンバーが援助を必要としたときはいつでも電話で対応できるようにしている。多くのリーダーが深夜まで電話でメンバーと話したという経験をもっている。リーダーとメンバーは、電子メールのアドレスを交換し、ブログなどで昼夜を問わず交流している。人々は自由に会い、いっしょに食事にでかけ、買い物をしたり、カラオケに行ったりする。遺族たちは孤立しがちであるので、誰からも誤解されることなく、他の遺族とともに人とのつきあいを楽しめることを喜んでいる。たとえば、カラオケで歌う男性をみながら、私たち著者の一人に次のように言った。「彼はカラオケを楽しんでいるけれども、私たちは彼がひとり子を失ったことを知っています。とても楽しそうに歌ってはいても(心のなかには悲しみがあることを)私たち、みんな、知っているのです。」別のリーダーは「私たちはコミュニティであり、大きな家族みたいなもの」と言う。
それに対して、専門職によるサポートグループは、ミーティングのときに与えられることが全てである。出席者は、個人情報を交換したり、ミーティングの外で他の遺族と話したりすることは遠慮するように言われるが、それは、依存症者が、集団療法の場以外では互いにつきあわないように言われるのと同じである。専門職もボランティアもミーティングの外ではメンバーとは通常、連絡をとらない。ミーティングのないときに援助が必要な場合は、別のサービスを利用するように言われている。


むすび

自助グループは遺族を「精神的に弱い患者」として扱わない。これは専門職主導のサポートグループと違うところである。サポートグループは、精神疾患をもつ患者に対して行う治療法や概念を、遺族のグループにも応用しているのである。自助グループはメンバーを信頼し、それが参加の自発性を尊重している。自助グループは、メンバーを全人格的に受けとめる。単にミーティングの出席者であるとか、援助の受け手であるとかというとらえかたをしない。こうした自助グループとサポートグループの違いは、エンパワーメントの視点(人々を弱いままで援助しようというのではなく、強くしていくという視点)があるか無いかにつながっていく。言い換えれば、自助グループは、遺族を強くしていくことにとても有効なのである。
 自助グループは、現在の政府の自死遺族への政策を評価していないことを公言している。それは心理的、精神的ケアに重点を置きすぎているからであり、そのような心理的、精神的ケアなら大部分は自助グループが提供できると考えるからである。しかしながら、一部の遺族は精神疾患に苦しんでいるとき、専門職の援助が必要であろうと自助グループも認めている。また、全国自死遺族連絡会は政府に、心理職や精神科医、グリーフケアの専門家ではなく、より多くのソーシャルワーカーを配置するよう要望している。遺族はソーシャルワーカーの援助なくしては解決することが難しい社会的、経済的な問題をもっているかもしれないのである。ソーシャルワーカーは、グリーフケアを提供しようとしてきた精神科医や心理職と同じ道をたどるべきではない。そうではなく、自死遺族をさらに社会的に力あるものにしていく(エンパワーしていく)ために、自助グループと協働することが求められている。


参考文献及び資料

Borman, L. D., & Lieberman, M. A. (1979). Conclusion: Contributions, dilemmas, and implications for mental health policy. In M. A. Lieberman & L. D. Borman (Eds.), Self-help groups for coping with crisis: Origins, members, processes, and impact (pp. 406-430). San Francisco: Jossey-Bass.

Oka, T. (2010, July). An ethnographic study on the anti-professionalism of self-help groups for family survivors of suicide in Japan. Poster session presented at Ninth International Conference of the International Society for Third Sector Research, Istanbul, Turkey.

Oka, T. (2011, March). Action research for developing a worldview of self-help groups of the family survivors of suicide in Japan. Poster session presented at the First European Conference for Social Work Research, Oxford, England.

Oka, T., Tanaka, S., & Ake, H. (2010). 「グリーフケアは要らないという声が自死遺族にはある」『地域保健』41(3), 21-25.

Takeshima, T., Matsumoto, T., Kawano, K., Inagaki, M., Takahashi, Y., Katsumata, Y., & Kaga, M. (2008, October). Japan’s suicide prevention strategy and the role of the Centre for Suicide Prevention. Paper presented at the 13th Pacific Rim College of Psychiatrists Scientific Meeting, Tokyo. Retrieved from http://www.ncnp.go.jp/nimh/keikaku/kisochousa/seika.html


癒し人より元気な遺族・・・私の悲しみは私のもの

murasakisikibu0309212[1]

遺族ではない人たちは
 「かなしみのケア」が大好き
遺族の悲しい話を聞き
 「大変でしたね」と憂い顔をするのが大好き
 
 悲しい人や不幸な人の話を聞いて
  「癒してあげたい」人が日本は多い
善意?
 
    私の悲しみは ケアされようがない
  癒されない 
       自分で抱えていく覚悟をするしかない

私の悲しみは 今も健一を愛しているから・・・
       癒されようがない
     誰にも・・・癒されない

       でも  不幸のどん底で  沈んではいない

   たぶん 私を癒やしたいと思っている 「癒し人」より元気

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悲しみの文化

07[1]

「悲しみもまた私のもの」
「悲しみは愛しさと共に」
「癒したい人の癒しさ」
 「悲しみの文化」
**************

「同志社大学 日本語・日本文化研究」第13号  PP・25-44(2015・3)
 日本人はどう悲しむか
 日独の自死遺族掲示板コーパスと均衡コーパスを用いた「感情」の言語表現比較の試み





  
要旨

「日本人はなぜ私たちと違う悲しみ方をするのか」
 東日本大震災直後の日本人の行動に対して ドイツ―メディアが投げかけた問いである
こうした
疑問に対しこれまでの心理学の研究成果は
  いくつかの基本的な感情があらゆる文化に普遍的である一方
   感情の表出はその人が属する
      社会や文化の影響を色濃く受けていることを示唆している

この結果からわかることは、ドイツ人は掲示板を 現実にウェブ上にいる同じ苦しみを分かち合うことのできる他者を見つけて
コミュニケートする場として利用し、悲しみを乗り越える方法を模索しているということである。
本章2項で述べた「liebe(親愛なる)」の使用頻度が高かったことも ドイツ人がインターネットの先に現実にいる相手を意識して語り掛けていることを反映している。
それに対し
日本人は掲示板をウェブ上の他者だけではなく、
内的かつ私的な「もう会うことのできない死者」に語りかける場としても利用している
日本語コーパスでは、感情語彙の頻度調査で上位にあった「寂しい」「つらい」に同様に
「寂しかったよね」「つらかったね」など
亡くなった人物の心情を代弁し、語り書ける形式の用例が見られる特徴があり
これらの感情語彙は書き手である遺族自身の心情ではなく遺族が想像した死者のものである
 彼らは、相手の心情を虜り語りかけるという本来コミュニケートできる相手と行うはずの行為を
コミュニケートできなくなった相手(死者)に対して疑似的に行っているのである


精神科医を替えたい時・・

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精神科医の替え方をフェースブックに二度書いたが
 消えてしまう
 長々と 書いて 掲載のボタンを押すと消えてしまう
  写真だけ残る

なので
 ブログに書いてから フェースブックにコピペしようと思う

懸命に書いて 全部が消えてしまうと・・気力が失せてしまう・・・今も消えた
 このブログが消えないことを祈る


精神科の医師を替えたい場合

紹介状は必要ない・・が基本

予約が必要でない場合

*受付を普通にする
多くの場合はすんなりと受け付けるが
「初めてですか?」といわれたら
「ハイ}とだけ答える
「どんな症状ですか}といわれたら
「少し落ち込んでいて眠れないんです「という。
*予約が必要な場合
電話予約時
(○○といいますが、〇曜日の〇〇先生の予約をお願いします)
「どこかにかかっていますか?」
(いいえ 初めてです)

「どんな症状がありますか」
簡単にいうこと
(悩みがあって落ち込んでます・不安が広がって気分が悪い日が続いています・最近眠れていないんです)
「どんな薬を飲んでいますか?」誘導尋問
(はじめてなので 薬は飲んでいません)
  と
あくまでも
  どこにもかかっていないことをいう
間違えても
 いろんな症状を伝えたり 薬の知識を伝えたり 質問をしないこと
なぜなら
 受付だから ~~~ 医師ではないので いう必要はない
  受付をしてもらい医師に診てもらえたらいいだけなので
   受付に病気や苦しみの理解は求めないこと
✹✹✹
 精神科医の紹介状とは
✹✹✹
  医師が他の医師を紹介する場合は別だが
    精神科の場合の多くは患者の意思で医師を替えたい
✹✹✹
 主治医に「紹介状を書いてください」というとはどういうことか・・・

✹ 「あなたを信じていません
 あなたでは治せませんので他の医師に行きますので紹介状を書いてください」ということです。
✹こういわれたら どう思いますか
 普通は「なんだこいつは」と思います
プライドの高い医師が自分の治療を否定されて気持ちよく紹介状を書くはずがありません
   それが普通です
✤✤✤
  ましてや精神科は客観的なデーターはありませんので
 主治医の主観で紹介状が書かれます
 ✤✤✤
  悪口三昧です あることないこと…
    ひどい内容が多いのです

✹✹✹
 そして 
 精神科の場合は これまでの自分ではなく
  昨日までの自分ではなく
今日・今・目の前にいる自分を医師に診てもらい診断してもらうことが大切です
✹✹✹
  今日、今、話をしている自分を診てもらうことです
✹✹✹
そして この医師が信頼できる、と自分が感じたら。
 この医師と一緒になら治せると信頼で来たら。
 お薬手帳を医師に見せてください
そして
 これまでの経緯や苦しみ不満等々 なんでも話してください

 そんなことで 怒るような医師は よい医師ではありません
   よい医師は
 黙って聞いてくれます
********
  言いたいことを言わなければ 医師は診断できません
 遠慮しないことです
  あなた自身が話すことが 検査です
  詳しく検査してもらいたいのなら なんでも話すこと

話さないと検査ができませんから 単なる主観で診断されてしまいます

よい医師は
 よく話を聞いてくれるはずです

減薬や断薬ができた時
 医師はこういうはずです
「あなたが治したんですよ…私はお手伝いをしただけです、頑張りましたね」と・・・

   初診でかかること
    そして 自由に自分に合う医師を見つけてください
  医師を替えることは自由です
  誰にも遠慮せず 自分との相性が合う医師を見つけてください

 ただし 受付も含めて 誰でもが薬に造詣が深いと思わないこと
     また自分のことに みんなが関心があると思わないこと
         大変なのは自分
           なおすのも自分です
 自分の思うようには人は動きません
    自分も人の思うようには動けないのですから・・・

  自分の意思で・・・医師には手助けしてもらいながら
    回復と元気は自分でつかむことです・・ 

************
  精神科医を変えたい時・・について

生き方

シラヒゲソウ[1]

  民事裁判
「和解」「勝訴」
 しかし亡くなった人はいない
    「バンザーイ」にはならないのが 遺族の裁判
 被災地の遺族の裁判も
    自死の遺族の裁判も
      交通事故の遺族の裁判も
こころから喜びはない  釈然としないものが残る
   それはそうだ 生き返らないのだから・・・
 だが
 同じことを繰り返してほしくない…という想いと
    なぜ死んだのかという真実と謝罪の気持ちを求め裁判をする
  しかし
  どんな結果が出ても  虚しさは残る
     生きて戻らない限り・・・
   一生 消えない思いがそこにはある
     どう生きたらいいのだろうか

***************



自死遺族として生きて もうすぐ10年

      
 全国の、亡くなって間もない遺族からの電話も多く受ける

 肉体はない 声も聞こえない 息も聞こえない
  匂いもない 見えない 会えない 話せない
     感じることができない

まさしく般若心経の一節

    このことに苦しみ、悲しむ

死んだら全てがないように思うのが 人間
でも
  魂があると 信じることができたら

  何もないようだが 存在を信じることができたら

おなじように苦しく悲しくても
 亡き人と共に 生きようと思える
   亡き人のまなざしを感じ 恥じない生き方をしようと思う
信じることができなければ
    無・・・ゼロ

  それを受け入れて生きられる人はすごい
私はできない
    私のように信じなければ生きられない人たちのために
      宗教は始まり広がった…のではないかと思う
  信じる心
   信心 
      愛する人との 死による別れ
     愛する人の魂が存在し まなざしがあると
    無心に信心する境地には程遠いが 
          信じる心を持ちたいと思う

  息子のまなざしを感じ 生き方を問う 
       これでいいのか・・・
   息子は渋い顔で 苦笑いしている気がする
     「かぁちゃん 頼むよ・・」
 「しゃないか~」  「まぁまぁ・・・」  と

いじめ自死


browallia02[1]

いじめによる自死も
  対策は進まない
 
  いじめられていると学校に相談しても
     対策は取らない


「ハイ・はい」と 聞いたふり
    右から左に流す


  毎年 18歳未満の児童生徒の自死が200人以上
    いじめと認定されているのが 毎年3~4人


   自死の対策の専門団体と自負している代表とその取り巻きの議員
     いじめの対策として提言したのは


「 いじめられている子供が「SOS]を出す方法を教育すること」
     


   子供がSOSを出し 保護者が学校に助けてくださいと
      お願いをしても 
  返事だけで 何も対策を打たないのに・・・


  それとも SOSの出し方が 間違っているとでもいうのだろうか


直接相談を受けていなくても
   新聞を読んだり ネットでいじめの問題を見ていたら
     「SOS]を出す方法の指導を子供にするなんて
     馬鹿な対策にはならない


 自死の対策のほとんどはこんな程度
   なぜなら
       相談を受けている人の提言が反映されないから
        当事者の声が反映されないから


   いじめの撲滅には
いじめられて自死した子供たちの親の声を真剣に聞くことです


  そこから解決策が見えてくるのです


 嘘つかないで・・と教えている教師が 嘘ついている姿をみて
   こどもは嘘つくことが大人だと学ぶ
  うそつきの教師の教えを子供は信じない


いじめても誰かが死んでも
   口をつぐんで 嘘ついたら 人生大丈夫だと学ぶ
   

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月を見ると心が痛い

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スーパームーンの夜は 意味もなく眠れなかった

  目が冴えて 3時半頃まで起きていた

息子が亡くなってから 月は心が痛い
       満月の日に 健一は逝った

    記憶をたどると  スーパームーンを朝方みた・・・
     アフリカの大地の地平線から太陽が昇っていると思うほど 
                       大きな月だった
      息子が悩む眠れていなかったであろう3日間の月があまりにも見事で
         夫を起こして 眺めた
 
    18階の窓から 月の光が燦燦と居間にさしこみ~昼のようだった
        なぜか眠れず  月を眺めていた 3日間
健一は
   死ぬほど苦しんでいた  一人で・・・
     一人ぽっちで・・・
   絶望の中にいた

        満月の朝に死んだ

       子供が死んだこともわからず  マンションの花壇に整備にでて
           大笑いし  午後は 友人とランチ
             
  その時まで  月が大好きだった
        健一が逝ってから  月は心が痛い

  大きな月は特に心が痛い
       満月は苦手

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日本の自死遺族の活動を無視している支援者たち

いまだに こんなことを本気で考えている自死遺族支援の担当者たち

  日本の現実を見ようとしない


■概要■

子どもを自死で亡くした後の保健医療制度に対する信頼の欠如は、必要な時に専

門的な治療を求める行為を阻み、結果として回復の機会が損なわれることがあり

ます。この研究は、保健医療制度に対する信頼の欠如について、自死で子どもを

亡くした両親を対象に、信頼の欠如とそれに関連する事象を調べることを目的と

した初めての大規模調査です。

本研究では、スウェーデンの全国民において、子どもを2~5年前に亡くした569

名の親と、年齢や性別等をマッチさせた326名の子どもを亡くしていない親(対

照群)を対象としました。筆者らは、子どもを自死で亡くした親とそうでない親

に対して、「保健医療制度を信頼しているか?」という質問を行い、また、対象

者の背景(性別・年齢等)と心身の健康状態についての情報を収集しました。

調査の結果、保健医療制度に対する信頼の欠如の割合は、自死で子どもを亡くし

た親は544名中253名(46.5%)、そうではない親では323名中59名(18.3%)と大き

な差が認められました。その差について、相対リスクを算出する方法を利用して

分析を行ったところ、自死で子どもを亡くした親は、そうではない親に比べて2.5

倍信頼の欠如を示していることが分かりました。また、子どもを自死で亡くした

後、保健医療制度に対して信頼が欠如している親に関連する事象としては、①都

市部に住んでいる割合が高い、②一人暮らしをしている割合が高い、③抑うつ尺

度(PHQ-9)の得点が高い人が多い、ということが明らかになりました。

自死で子どもを亡くした親の中には、保健医療制度に対する信頼の欠如を示す方

がおられます。筆者らは、更なる研究の必要性を前置きし、保健医療制度の信頼

レベルを回復することを目的とした将来的な介入の中で、先に述べた3つの事象が

ポイントになる可能性が考えられると述べています。





■CSP自死遺族サポートチームからのコメント■

本研究は、福祉国家として有名なスウェーデンで行われた大規模調査です。筆者ら

は、子どもを自死で亡くした後に保健医療制度への信頼を失くした親に対して、調

査の結果から得られた3つの事象が保健医療制度の信頼を回復させるポイントにな

る可能性があると述べています。加えて、同じくスウェーデンで行われた同様の研

究では、信頼の欠如に関わる事象として、専門家(論文中では医療従事者を意味し

ています)と患者のコミュニケーションについても考慮する必要があると指摘して

います[A]。

今回ご紹介した論文の結果は、保健医療制度が日本とは異なる地域で得られたもの

ですが、ここで得られた知見は、日本で同様の研究を行っていく際に参考になるも

のと思います。



注)本研究で得られた3つの事象と保健医療制度に対する信頼の欠如は、相互に関

連があることが分かっていますが、それが因果関係にあるということまでは明らか

になっていません。したがって、独居であることや都市部に居住していること、

抑うつ尺度(PHQ-9)の得点が高いということが原因となって、保健医療制度に対

して信頼が欠如しているという結果ではありません。

支援の現実

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国や自治体のバックアップを得て
  大声で「グリーフケア」が叫ばれている

 大学で「グリーフケア」の枠を設けると 支援したい人たちが殺到するという

    心のケア  悲しみのケア
                     癒してあげたい人たちで溢れている今の日本

   家族を亡くして悲しい人たちを 助けてあげたいらしい

       国の自死遺族支援のための指針が グリーフケアが中心だ

     財産相続のことを相談しても
 いじめの相談をしても   労災の相談をしても
   子育ての相談をしても
      無視
 
   遺族が様々な問題を抱えて  その問題に潰されそうになっても
        悲しみのケア

    道路でたたかれていても
       心のケア
              住む家がなくても心のケア

     仕事がなくても心のケア

      これが 国の支援対策

 それを 受けて 真面目に(?)

バカの一つ覚えみたいに

 目の前の遺族が 別の相談をしても
    悲しみのケアをするだけ

    何十億円もの税金を投入して

 自死遺族の悲しみのケア  グリーフケアだけ

         具体的な支援は 遺族が専門家と連携して行っている

        なんか違う・・・

が  文句を言っても仕方がない

 自分たちのことは自分たちでやるしかない

     それが現実

遺族の気持ちとは


totiba_ninjin[1]


遺族の気持ちとは
            全国自死遺族連絡会
                                 
遺族から聞く訴えや要望を集めました
◆簡単に励まさないで
「そのつらい思い、わかる、わかるよ」と、親切心からの言葉だと 思いますが、このつらい思いがかえって軽んじられるようで、一層つらくなります。「若いんだから、まだまだ先があるから・・・前を向いて・・・」「生かされてやるべきことがあると思うよ」と言われて、亡くした人を軽く考えられているように感じました。
◆今の気持ちに心を寄せて
「昔から“時薬”と言われているように、いずれ時間が経てば、必ず気持ちは楽になりますよ」と慰められても、今とてもつらい思いをしている自分には、何の慰めにもなりません。今がつらいのです。


707[1]





◆善意の押し売りはやめて
善意から慰めようとして薦めてくださるのでしょうが「何々などの趣味は心にいいですよ」「外にでてお花でもみたり、ペットを飼われると、アニマルセラピーとかで、心が癒されますよ」等と、押し付けないでください。自分がこれまで好きだった趣味さえ気持ちが向かないのに・・・
◆他の子が代わりだなんて言わないで
「あなたにはまだ、もう一人子供がいるではありませんか、その子を代わりだと思い、なくなった子供の分まで大切にしてあげて」と諭されたとき、どんなに傷ついたことか。亡くなった子の死を悲しんでいるのに、そのようなことを言われ・・・
◆何処で、どのようになどの質問はしないでください
「なぜ、そのようになったのか」というような理由は詰問しないでください。そのことが、どれほど私の心をズタズタにしてしまうか、わからないのですか・・・
遺族がしゃべらないことは、あえて質問しないでください。







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◆私の大切な人が、あの世で苦しんでいるなんて言わないで
遺体が見つかっていない遺族や、葬儀や埋葬をしていない遺族に「成仏していない」とか「天国にいけない」などは言わないでください。
「死に様はいろいろあるけれども、死んだら皆平等です。亡くなった方は全て安らかですよ」という宗教者の言葉で心がほっとしました



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◆グリーフケアとか心のケアとか言わないで
遺族のケアってなにをするつもりですか
大切な家族が亡くなって、悲しいのはふつうです。悲しみを取り除こうとしないでください。遺族の悲しいは「愛しい(かなしい)」です。深く愛しているから深い悲しみがあります。
記憶は消えませんし、消せません。愛は消せません。
亡くなった人が生き返らない限り自分たちの回復はない!と遺族は思っています。「ケア」と言われるたびに傷ついていること、知らないのでしょうね。








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◆疲れない距離で接して
人と会ったり、電話で話したりすること自体が大変な負担でした。気持ちの負担にならない距離で,会わなくても気にかけてくれているのが伝わると、安心できました。こちらのペースでやり取りできる手紙やメールがありがたかったです。
◆こちらが話すまで、死について触れないで
故人や死に関連する話題は、たとえ、どんなにためになる話でも、拒絶反応がおきました。私が死について触れる話をしないときは、そっと、さりげない話がありがたいです。(季節の話とか)




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:みんなが同じなんだからあなただけが辛いんじゃない・・・
:仕方のないことだった・・・
:いつまでも悲しんででも仕方ない・・・
:市にたてついてそんなにお金がほしいのか・・・
:親がいつまでも悲しんでいたら犠牲になった子供がかわいそう・・・
:責任は誰にも問えない・・・
:もう大丈夫だから元気になったとなんで言えないのか周りのために・・・
◆安易に精神科医療を勧めないで
精神薬を飲んで、ある日肉と骨がバラバラになる感触があり、怖くてやめました。それ以前に、悲しい自分の心と、テンションが高くヘラヘラ笑っている自分との違いに、自分を責めて生きている資格がないと思った時期があり、薬をやめてから普通の悲しい自分でいられています。(心のケアの人に勧められて精神科医療機関に通っていました)
薬を呑んでも悲しみは薄くはなりませんでした。よけいに苦しかった