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グリーフケアは要らないという遺族が自助グループに集う

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グリーフケアは要らない」 という声が 自死遺族にはある

 自治体が、自死遺族に対する 心のケア、支援を取り上げる以 前に、厳然たる事実があること を忘れてはならない。  今回は、中でも保健師が知っ ておかなければならない「悲 嘆」について、自助グループの 研究者と当事者による貴重な メッセージを紹介する。
グリーフケアを考える 特 集
上智大学 岡 知史(写真)
全国自死遺族連絡会  田中幸子 明 英彦
(おか・ともふみ 総合人間科学部社会福祉学科教授)
(たなか・さちこ あけ・ひでひこ)

22地域保健2010.323 地域保健2010.3

ケアできない悲しみもある

「『グリーフケアは要らない』と考え ている自死遺族がいる」と聞いたら、 保健師である皆さんはどう思われるで しょうか。 「それは、大変だ。そういう人こそ ケ アしなければ!」と思われるでしょう か。支援を拒否する「より困難なケー ス」を考えてしまうでしょうか。それ とも自暴自棄になって、人生を投げ捨 ててしまったような人を思い浮かべる でしょうか。
 
私(岡)が出会った自死遺族たちは 「グリーフケアは要らない!」と言っ ていましたが、決してそのような人た ちではありませんでした。
 
その遺族たちは、みずからの体験を、 同じ体験をしてきた遺族だけで 「分か ち合う」自助グループに集っていました。
その集いがあったからこそ、遺族 たちは勇気を持って「グリーフケアは 要らない」と宣言することができたの だと思います。 「グリーフケア」を拒否するには、大 変な勇気が必要だったことでしょう。 なぜなら「自死遺族にはグリーフケ アが必要だ」と、「専門家」なら誰で も声をそろえて言うような時代なので す。そんな時代に「専門家」ではない 人々、特に彼らからいや応なく「社会 的弱者」と見なされてしまった人々が、 個人の生活においては心に深い悲しみ をたたえたまま、国や自治体のバック アップを得ていまや大声で叫んでいる ような「専門家」を前にして、はっき りと「否 ノー 」と発言しているのです。

悲しんでいる人を憐れだと 思っているのか
自助グループに集う遺族たちが「グリーフケアを拒否する」というとき、 それは「より良質のグリーフケアを要 求している」のではありません。つま り「心のこもっていない グリーフケア は要らない」とか、「訓練されていな い人からの グリーフケアは要らない」 と言っているわけではありません。
 
遺族たちが「グリーフケア」を要ら ないと言うのは、一つの明確な理由か らです。つまり「自分たちの悲しみは ケアされようがない 」と思っているか らです。その深い悲しみは、ケアされ ることなどないのです。まして、同じ 体験を持たない人からは、どんな技巧 を駆使した働きかけを受けても、その 悲しみの深さには届かないと遺族たち は考えています。 「悲しみがケアされようがないなん て、それこそ悲しすぎる」と、あなた は思われますか。しかし、それが真実 なら人間は受け入れるしかありませ ん。そのあまりに重い真実をそのまま
受け入れることを決意した遺族が、自 助グループに集っています。
 
それだけの厳しい決意をした人々を 私(岡)は敬いたい。もしも、それで もなお「グリーフケアは要らない」と いう遺族たちは「実はケアを必要とし ているのだ」と主張する「専門家」が いたら、私は問いたい。「あなたは、 悲しんでいる人を憐れだと思っている のか」と。もしそうだとしたら、大変、 傲慢なことだと思う。私たちのうちど れくらいの人々が、いま遺族たちが向 かい合っている真実と同じくらい重い 真実に目を向けているだろうか。
 
遺族は「病人」ではない
「グリーフケアの専門家」を遺族たち が嫌がる一つの理由は、彼らが遺族た ちを「ケアを必要とする病人」として 扱うからです。
「病人」とは病 やまい に苦しむ人で す。病人は「病」 が一刻も早く無 く な り、「 病 」 から回復するこ とを望みます。 そのためには誰 かの手、特に専 門的知識を持つ 人の援助も求め ます。なぜなら 「病」の治療法 は「病人」本人 よりも医師など の専門家のほう がよく知ってい る場合が多いで しょうから。
 
しかし、遺族 の「悲しみ」は 「病」なのでしょ
うか。愛する息子や娘が亡くなって「悲 しむ」のは人として当然のことです。 悲しまないほうが、かえって「病気」 であるように思います。5年、 10 年、
20 年と育ててきた子どもを亡くした親 が、数年でその悲しみから回復される でしょうか。
 
遺族の「悲しみ」が「病」とされる とき、その「悲しみ」が自分の愛する 家族の思い出と一つになっているもの であるにもかかわらず、遺族はみずか らの「悲しみ」を捨てる ことを「専門 家」から強いられているように感じま す(専門家はそれを「回復」と言い換 えていますが、同じようなことです)。
 
またその「悲しみ」が、遺族一人ひ とりにとって特別なものであるにもか かわらず、「専門家」は、あたかもそ れが自分たちにとってはすでに知って いる事項であるかのように考え、一般 化し「処方箋」を与えようとします。
 そのときに多用されるのが次に述べる「悲嘆回復プロセス論」です
悲嘆回復のプロセス論は遺族の心情を否定する
 「悲嘆回復のプロセス論」は、おそら く「グリーフケア」の核になっている 考え方でしょう。少なくともグリーフ ケアの「対象」となっている自死遺族 からすると、そう見えるのです。 「回復させる」ことが、グリーフケア の専門家の「腕の見せどころ」なので しょう。「回復させる」ことができな いのなら、治療できないということで あり、これは専門性の敗北です。です から、それは専門家の沽 こ 券 けん にかかわり、 認められないわけです。 「回復」を良しとする専門家にとって は、いつまでも悲しみをたたえている 人は「病的」です。「問題」であり、「処 遇困難ケース」であり、要するに「継 続することが望ましくない状態」にあ
る人です。「悲嘆回復のプロセス」の 図を使えば、下位の段階でとどまって いる「不幸な人」「前進しない人」と も言えるでしょう。
 
しかし、そのような考え方は「私の 悲しみはケアされようがない」と考え ている遺族を否定するものです。「私 が回復するのは、息子が(娘が)生き 返ったときだけだ」という遺族の声が あります。その声を「病理的だ」とす るのが「悲嘆回復のプロセス論」でしょ う。なぜなら、その声は(誰もが望ん でいるはずだと「専門家」が思い込ん でいる)「回復」を拒絶しているよう に聞こえるからです。
愛からの回復はあり得ない
「悲嘆回復のプロセス論」の間違いは、 遺族の「悲しみ」は、家族への愛と一 体なのだという自明の事実を軽視して
いることでしょう。「愛からの回復」 はあり得ないように、自死遺族の悲し みからの回復もあり得ないのです。 「悲嘆回復のプロセス論」の中では「悲 しみ」は、人間はできるだけそこから 離れているべき「悪」として描かれて いるようです。なぜなら、プロセスが 進むにつれて「悲しみ」が遠ざかり、 それだけ人間が幸せになるとされてい るからです。これでは「悲しみ」は心 を痛めつける害毒のようで、遺族の「愛 と一体である悲しみ」とは、あまりに 姿が違いすぎるのです。 「悲しみもまた私たちのもの」と、自 死遺族たちは主張します。「悲しみ」 は「専門家」やボランティアなどの他 者に治療してもらうような「病」では なく、また大切な自分の身体と同じよ うに切って取り除くようなものでもあ りません。また「私の悲しみ」は「私」 とともにあり、「私」が最もよく知る 者なのであり、どんな「専門家」といえども、「私」よりも「私の悲しみ」 を知っていると言うことを許さないと いうことです。 「愛しい」と書いて、「かなしい」と も「いとしい」とも読みます。昔日の 日本人は「愛 いと しさ」と「悲しさ」が一 つのものとしてあることを、よく知っ ていたのではないでしょうか。三回忌、 七回忌、十三回忌と、五十回忌まで続 く日本の法事の伝統は、死者とともに 生きることを知っていた、私たちの先 祖の知恵だったのかもしれません。
 
 保健師たちの望むこと

最後に保健師たちに望むことを書い ておきます。 「グリーフケア」の必要性が、国を挙 げて叫ばれていますが、その「グリー フケア」なるもので傷つけられている 自死遺族がいることも、忘れないでいただきたい。 「グリーフケア」は精神科医などが誇 示する高い専門性に依拠し、国と自治 体の承認と奨励という権威に守られ て、ボランティア的な善意で行われて いるという、いかなる反論も許さない 条件の下で、大変な圧迫感とともに与 えられているのかもしれないというこ とを覚えていてほしい。
 
そうすれば、わずか数時間のセッ ションに参加しただけで「悲しみが 減った」という結果を数字で表現させ られ、遺族に「もう二度と来るものか」 という悔し涙を流させた「グリーフケ ア」が、なぜ全国各地で行われていた のかが分かるでしょう。そして、行政 の肝 きも いりでつくられた「癒しの場」に、 なぜ自死遺族が集まらないのか、来た としてもなぜ再び足を運ぼうとしない のかが分かるはずです。
 
自死の予防も大切ですが、防ぐこと ができなかった自死もあるはずです。
その事実の前に、耐えながら生き続け ている遺族たちを「病人」扱いせず、 まして「問題」とはせず、避けられな かった重荷を負った人であるとして敬 意をもって接していただきたいと思 う。
 
言うまでもなく、私(岡)が接した 自死遺族はすべての自死遺族の姿と重 なるというわけではありません。「グ リーフケア」を積極的に求める人もい るし、うつなどの精神症状を持ち、「病 人」としての扱いが必要な人もいます。
 
しかし、基本は同じだと思っていま す。遺族の声に耳を傾け、その意思を 尊重するということがどこまでも求め られるのだと思います。
 

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息子と共に・・・

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 悲しみでいっぱいの時は 自分本来の性格が 悲しみで包まれて隠れている
    だからみんな同じように悲しんでいるように見える
   みんないい人に見える

しかし 少しずつ悲しみが全体を被うのではなく 
      以前の暮らしに戻るにしたがって  自分本来の・・その人の本質が出てくる
遺族になる以前のその人の人間性が出てくる

 その時に  亡き人のまなざしを感じていられるか・・・
      亡くなった人をどれほど愛し、反省し、自戒し、生き方を見つめられるのか
 謙虚さを持てるのか
     亡くなった人のために やさしく生きられるのか
           悲しみから何を学んだのか・・・学べたのか・・・
  亡き人からのメッセージを受け取れたのか 受け取ろうとしているのか・・・

        ただ…元の自分の戻るのか・・・

     ただ 元の自分に戻る人が多い
            元の自分・・・煩悩だらけの 嫌な人間が多いと思う( 私はそうでした)

    そうすると
  人の悪口を言ったり  噂話をしたり
       仲間外れにしたり・・・・
 しあわせな人たちのお茶のみの集いのようになってしまう
   孫自慢したり  仕事自慢したり
      着るもの自慢したり
       
 遺族のわかちあいの集いは
亡き人を偲び語る時間を共有する…場所であって

 人の悪口を言う場所ではない

     人の好き嫌いを言う場所でもない

   私たちの愛する人たちは  人に意地悪をされたり
               いじめられたり  パワハラを受けたり
    過重労働だったり  医療がいい加減だったㇼ

    理不尽なことが原因で自死しています

  愛する家族を理不尽なことで亡くした遺族が同じように理不尽なことをして・・
       いるのをみると
  かなしくないのかなぁ~~~と思ってしまいます

 次男は 
   遺族の悪口を言う遺族は かなしくないんだよ…といいます
 本当に悲しみでいっぱいの時は
    遺族の悪口は言いませんというより いう元気がない・・・

   悪口を言える遺族は 元気になって 本来のその人の姿になったということです

   遺族はもともと方遺族ではないので…元の姿に戻る人も多いと思います

      私は 息子に見られていることを意識して活動をしています
        原点は息子の死に顔です

   苦しい時辛い時迷う時  いつも息子を思います

     道の真ん中に いつも 息子が います  

    

自助グループとは

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自助グループとは

  当事者が代表だけでは自助グループではありません
当事者がスタッフにいるから・・・でも 自助グループではないのです。

 会の持ち主…会を閉める・会を継続する・という決定権が 当事者にあること。

例えば 病院で会を開催していて
        患者だけが参加している・・・
病院関係者は参加しないが 閉会や開催の決定は病院関係者が決める…自助グループではありません

  もちろんスタッフに当事者以外の人がいるのは自助グループではありません。

   自死遺族の自助グループ  持ち主が自死遺族当事者であること
  スタッフも自死遺族当事者であること
        決定権は自死遺族当事者にあること

  会の運営に関することは自死遺族当事者が決める
      

      括りをどれにするか・・・

自死遺族にするのか・・・子供を亡くした…にするのか
  自死で子供を亡くした…にするのか
       自死で親を亡くした・・とするのか・・・様々である

 ただし 代表が遺族当事者でも スタッフに他者がいれば 自助グループではない
     
      閉会や開催の決定権が 保健師や病院や医師という人にあるのは 自助グループではありません

 自助グループがよくて  支援者グループが悪いと言っているのではなく
      自助グループの定義ですよ…というだけの話です

        そして「わかちあい」を目的とするなら「仲良しグループ」ではないということです
  仲のいい人悪い人…ではなく
      対等に平等に  相互扶助が基本です

   代表やスタッフは    特別親しい人がいても  親しいことを出さないこと・・・  
       
     悲しみ比べはしないこと

 世界で一番悲しいのは自分です  それでいいのですが
  それを言葉にして声に出していうことは絶対にしないこと

    世界で一番悲しいのは自分でいいのです
  それを認めあいながらのわかちあいです

     愛しているから悲しい・・・
       愛が薄ければ悲しみも薄い   当然です
       世界で毎日・・・こうしている間にも人は亡くなっています
  が その瞬間いつもいつも胸が痛くなるような悲しみは感じません   
      他人の悲しみなのです
        愛が違うからです

      目的は元気になること・・・・
                      なんでもいいのです元気になってくれたら・・・


   亡くなった人の眼差しが感じられたら
       人に意地悪はできない
      
  やさしくありたいと思う
              時々イラつくが 息子が苦笑いしてそうで
           反省の日々

   自助グループとして活動をするなら
  自助グループの定義や意味を知ることは大切なこと  

   そして  総合支援のためには
   様々な専門家との連携は必要です

      区別をしてきちんとわけて考えることが大切です

            わかちあいは 誰かが何かをしてくれる場所ではありません

   助けてくれる場所ではないのです

    自分で考え自分で立ち上がリ自分の足で歩くこと・・・
   自分の前を歩いて生きてきた同じ思いの遺族がいる・・・・というだけです

      自分一人ではない   同じ悲しみを抱えて生きている人がいる
             どうやって生きてきたのだろうか
        そんな思いを抱き…自分なりに自分の合う生き方を見つけていくための
   ひとつのツールに過ぎない

       たいそうな事ではない…と 思って わかちあいをしています

 しかし原点です・・・基本です  活動の・・・

   重要なことであって・・・・大げさなものではない
        それが わかちあい

亡き人を偲ぶひと時を~~~法話と回向と共に


法話の会

   法話~~回向~~茶話会

   いろんな遺族の方のご参加をお待ちしています

   亡き人を想うひと時を・・・・



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  平成27年10月17日(土)




場 所  西 光 院(さいこういん)

奈良県葛城市竹内959

     近鉄南大阪線 「磐城駅」 徒歩20分

 


時 間  14時30分~17時

     (受付開始は14時から)





参加費  無 料   






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日 程  平成27年12月19日(土)




場 所  成道山 「法輪寺」




     兵庫県尼崎市武庫之荘4-4-10

     阪急神戸線 「武庫之荘駅」徒歩9分

            


時 間  15時~18時

     (受付開始は14時30分から)





参加費  無 料   










仕事としての会の開催と自前での会の開催の違い

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 自死遺族のわかちあいの会

      参加してみて 合わなければ次会から参加しなければいい
 参加しないことが気持ち
   二度と参加しなければいい

        無理に参加してくださいという会ではない

    自由参加  

     行政が主催の集いは 税金で開催している
        保健師さんも仕事
      進行役として行政から講師で呼ばれている人も 税金から謝礼金をもらっている
        お仕事である

お仕事の場合は 参加している遺族に不満を言われても仕方がない
    悲しみのケアを仕事としているわけだから ・・・
   仕事とは成果を求められるものである

         遺族が自前で(茶菓代は別)集いを開催しているのに
     参加してみて不満だという人がいるが
    それは 他人の家に御邪魔して 気分が悪い!と 文句を言うようなもの
      気分が悪いなら 参加しないこと・・・・です
     
   私のいいように会を作ってください・・・というのは変
     他人の家に行って  雰囲気の悪い家だ!と文句を言っているようなもの

       行政が主催の遺族の会と 遺族本人が自前で開催している会との違いは
           こんなところにもあるのだと・・・わかってほしい

  というか  常識ではないだろうか

   仕事で開催している人は 移動したら関係ない人
       あくまでも仕事
 参加する遺族も勘違いしないほうがいい

   仕事でなければ 遺族の話なんて 聞きたくもない人たちです・・・
    それが普通です
        
        もちろん 精いっぱいの居心地のいい場所つくりはしようとは思う
     しかし
  合わない人もいるでしょう
      私の顔を見たくもない人もいるかもしれない
            それは仕方がない  親からもらった顔だから・・・

  話し方が嫌な人もいるかもしれない
    それも仕方がない   合う合わないはあるから

   合わなければ 参加しなければいい
        どこに行っても合わないなら 自分で自分なりの会を作ったらいい
    
         自分で会を作り開催したらわかるものがある

      万人に合う会なんて作れるわけがない
       その時の参加者でも雰囲気は変わる
     参加してくれる遺族に 許してもらいながら 会を重ねてきた
   いたらないことばかりだけど
   許してもらい  110回が過ぎた

   新しい遺族の参加も多くある
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    自死 遺族のわかちあいの会
   子供を亡くした親のわかちあいの会

    遺族の茶話会 
               誰でも参加できるサロン

   遺族が参加する法話の会

     支援者と共に活動する自死遺族と権利保護研究会
       専門家とともに活動するみやぎの萩ネットワーク

        様々な活動をしている全国自死遺族連絡会

     いろんな会がある

  来るもの拒まず 去る者追わず

      他の遺族の批判はしない   のけ者にはしない

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かなしい誕生日

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長男健一 9月22日 誕生

少し早く生まれた・・・2700グラム


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長男健一 小学校入学  水疱瘡で一人で入学式


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 長男 結婚式 29歳

   勝山館で盛大に~

  この後 4年半で自死

    今日は誕生日
 お墓参り
    お寺さんへ

次男は仕事なので 夫と二人で・・・

   かなしい誕生日です

悲しみと幸せと元気

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  多くの皆さんのご参加ありがとうございました。
    ゆっくりとみなさんとお話ができなかったこと 反省しております

   愛する家族が亡くなって
100パーセントの幸せは 遺族にはありませんが
  元気には生きていける  と思っています

 元気に生きることも供養です

   亡くなった人への想いは 
                  沈んでばかりでは伝えられません
   沈むときもあります・・・・
      悲しみもあります・・・
せつなさも・・さみしさも・・・ 胸の痛みも・・・あります

 でも 元気でいることは大切なことです

    些細なことは 気にせず
(愛する人が亡くなった事実に比べたら ほとんどはたいしたことはない)
   おおらかに
        亡き人のためにも 
    生あるうちに やるべきことがある・・・とおもう

  欲張りな・・・いや
  人使いの荒い息子は  私に あれもこれも・・・伝える

   伝えられたことを 全部受け止めてあげたい私は アップアップ~

      しかし 全部受け止めたい

     いのちが尽きるまで  受け止め やり遂げたいyanagirani[1]

 自死の問題は社会の問題
      普通の人たちを 死ぬほど追い込む要因を改善していきたい
    

全国自死遺族フォーラム第8回 無事に終わりました

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全国自死遺族フォーラム 第8回 

 たくさんの人たちにご参加頂きましたこと感謝いたします。

   岡先生の講演

今年もやさしいお人柄のままの しかし さすが教授 さすが研究者
そんな内容でした

   やる気をもらいました

「自助グループに集う自死遺族と悲しみの文化について」


  日本にはかなしみの文化があるという

     それは 悲しみを深くとらえ  そこに美しさをみて
   生きることの意味を人に教えるような
   そういう文化である

「日本人はなぜ私たちと違う悲しみ方をするのか」

これは 東日本大震災直後の日本人の行動に対し
   ドイツ―メディアが投げかけた問いである

日本人の精神史においては
こうした「かなしみ」を感受し表現することを通してこそ
 生きる基本のところで切に求められる 他者への倫理や 世界の美しさ
  さらには
神や仏といった 超越的な存在へとつながることができると考えられていたのではないか
つまり
「かなしみ」とは
 生きている事(死ぬこと)の深くゆたかな奥行きをそれとして感じさせるかんじょうなのではないか



    なんでもかんでも欧米が進んでいると思い込むのは止めた方がいい
 あちらの国には
  悲しみを深く受け止める文化はなかった

 そこから生まれたのが グリーフケアなのだ

  謙虚に学ぶ姿勢は大切だろうが
       それは
   まず私たちの文化や伝統に目を向けてからの話だと思う

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これから東京

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今日は 8回目の全国自死遺族フォーラム

   忙しすぎて ブログの更新もままならず 資料の印刷も夕べ遅くにようやく完了

 睡眠3時間で今起きて これから仏壇にいつものように・・・・
  昨日は仏壇のお花も替えて・・・
    亡き 息子と一緒に 東京へ~

  穏やかな一日になるように・・・

     心静かに・・・

   今日が奥さんの一周忌の遺族・・・

     久しぶりにメールが届き、少しやりとりを・・・
        
     多くの人たちのことを想い祈り・・・活動に~

         遺族が減ってほしい  自死が減ってほしい

       遺族には元気に生きて欲しい

       元のような幸せにはなれないけど 元気に生きて欲しい

        今日は 上智大学の岡先生のお話

            いつもいつも  支えてもらっている

    人は 知らされない愛によって 救われている

          たくさんのありがとう

      深い悲しみと共に  多くの愛も頂いてます

         今月は息子の誕生日
             44歳

      いじめやパワハラのない社会
    自死のない社会を願っています
        生きていてください  生きているだけでいいんです

全国自死遺族フォーラム  第8回

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「全国自死遺族フォーラム」第8回開催


◇日時 9月13日(日)1時から4時
◇場所 「きゅりあん」6階 大会議室 東京都 大井町駅 (2013年開催と同じ場所です。)



【第1部】 13:00~14:25
 
 岡先生 講演

 自死遺族等の権利保護研究会から


 休憩


【第2部】 14:40~16:00


 自助グループの座談会


・各グループの方々にグループの紹介(3~5分)をして頂いてから、テーマごとに意見交換
今回は4グループ位を予定しています。(全グループ登壇できる様に次回2016年以降も予定しています。)

 12:15 開場
 13:00~16:00 フォーラム
 16:00 会場現状回復
 17:00位から2時間懇親会


● 懇親会会場は未定ですが場所は会場から徒歩圏内(大井町駅前)の予定です。
● 会費は飲み放題3600円程を予定しております。
● 時間は2時間。(2次会・3次会当日受付けます。)

   多くの遺族が参加します。
年に一度だけ会う人たち
  自分の住んでいる地域だけではなく
     全国の人たちとの出会い

   もちろん 遺族以外の人たちの参加もOkです

   自死遺族支援をしている人たちや
これから自死遺族との関わりを持とうと考えている人たちの参加もOKです

      活動をしている遺族も多く参加します

    「わかちあい」は自助グループの場合
他者を入れませんが
   フォーラムや懇親会は 開放されています