
私は心がざらついたとき
やさしい気持ちが崩れそうなとき
岡知史先生のエッセイ本をよく読む
「知らされない愛について」
「ほんの少しの神に近い部分」
「砂の山の穏やかな傾き」
この中の
「人間の深さ」から 一部抜粋
福祉施設で実習する生徒には
「施設で器用にふるまえなくても、
複雑な福祉制度をすぐに暗記できなくても悩む必要はない。
それよりもっと大事なことは
実習を通して自分の人生観や人間観、死生観を深める事だ」と
繰り返し言っている。
人間には、それぞれ深さがある。
それを高さと言わないのには、いくつかの理由がある。
ひとつは高さと違って深さは遠くから見えない。
近くまで行って、その人とかかわらないかぎり 、わからない。
わかっても
どこまで底が深いか、深ければ深いほどよくわからない。
また高さは他の高さと容易に比べられるが、深さは比べにくい。
まして深ければ深いほど、
その深さはわからないものだから比べようがない。
ただ
ふたりの人間が出あったとき、
かばい守ってくれるのはより深い人の方なのだ。
中略
ある学生にそんな話をしたら
「何を基準に深い、浅いと言っているのか」と問いただされた。
中略
ひとりの女子学生が養母施設に実習に行った。
彼女は施設で何を学びたいのかと聞かれて
「両親がいない事によって、子どもの心がどのように歪んでいるのか知りたい」と言った。
その言葉に保母さんはひどく心を傷つけられた思いがしたそうだが、彼女はそれに気がつかなかった。
そんな彼女が子供たちから受け入れられるはずがなかった。
彼女は施設の中で孤立し、寂しい毎日が続いた。
それをみた一人の小学生の女の子が、なじみの保母さんにこう言ったという。
「私は、あのお姉さんに話しかけてあげたい、さびしそうだから」。
中略
少女に声をかけられて急に元気の出た実習生は得意げに私に報告した。
「先生、やっと子どもたちがなついてくれるようになりました」
私は「よかったね」と一言だけ言ったのだ。これ以上、何を言えるだろう。
小学生の、家庭に恵まれなかった子どもが、
大学生の彼女よりもずっと深くまで見つめていたなんて、
今の彼女に信じられるだろうか。
「でも、大学生はみんな二十年ぐらい生きてきて同じ量だけ体験を積んできているのだから
深さに差はないでしょう」と学生たちは言う。
いや、そんなのじゃないのだ、人間の深さというのは。
二十代の若さで倒れながら人生のすべての悲しみと喜びを唄った詩人がいたではないか。
二十年生きてきたから
十年生きてきた人の二倍の経験をしたなんて、
そんなこと言えるはずがないじゃないか。
大学生が「ゆがんだ心」を
子どもたちの中に見つけようとして、刺のような視線を振り回していたとき、
ひとりの子どもは「大きなお姉さん」をたすけてあげたいと悩んでいた。
私たちは、
このような小さな魂にすくわれているのだ、このような顧みられないやさしさに。
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