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悲しみは乗り越えるものではない

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死別の
 悲しみを乗り越えるにはどうしたらいいのか…と聞かれることが多い

 悲しみは乗り越えられないと答える
  悲しみは抱えて生きていくしかないという
愛しているからこそ悲しい
  愛が消えなければ 悲しみも消えない
  亡くなっても愛する気持ちは変わらないいつまでも・・・・

抱え方は人それぞれ・・・
   どのようにして抱えて生きていくかは  
その人と亡き人との間で決めるしかない

 そして人の気持ちは揺らぐもの
    
   悲しみをごまかして生きていても
  突然 悲しみにつかまってしまう

   深い深い底なし沼のような悲しみに落ちてしまうこともある

  活動をはじめて間もなくの頃は
    歩いていて 突然力が抜けて  ヘタヘタと地面に座り込んでしまう事もよくあった
      講演に行く途中で
         胸が苦しくなり 突然泣き出してしまう事もあった

今も 時々 無力感に苛まれる

  でも 踏ん張る 

    でも立ち上がって歩く

息子のために 
  自死で逝った息子のために

 やるべきことがある

   次の遺族たちに 託すためにも
      道は拓かなければならない

後 10年・・・は  頑張らなければ・・・

 私の 悲しみは愛しい息子とわたしの間に存在する

   息子への懺悔の生き方は
       なかなか厳しい
 人は大好きで
   裏切られても  んんん???と思う事が多々あっても
      知らんふりして
    付き合うことはできる
 何度も何度も
   見て感じても  いいところを見ようと思う

でも でも
  限界はある

悲しみを抱えていても 他の 感情もある

生きているから・・・

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愛を知らないグリーフケア

miyamakaidou[1]

グリーフケアってなに?

 私はグリーフケアの専門家に傷つけられてきた

  本を読んでも 専門家と話しても
     傷ついてきた

   悲嘆・・・という表現が嫌い

   かなしい  か・な・し・い
    悲しい 哀しい カナシイ 愛しい(かなしい)

   愛しいという文字でかなしいと読むのが一番しっくりくる・・・かな・・・

それでも 足りない

 人間が作った言葉では表現できない感情があることも事実
    
   深い深いかなしみを  悲嘆 なんて 文字で言葉で表現し
   しかも悲嘆の回復という考え方  
   悲嘆からの回復って何ですか

   愛する子供が亡くなり 今でも悲しい
     11年が過ぎても 悲しみは消えない
      消えるわけなどない
今でも健一を愛しています
  だから この世にいない健一に会えないことがかなしい

    悲しみがあっても 普通に元気に明るく生きています

   グリーフケアを学んでいる人たちは
    人の感情を 生きるという事を
        悲しみというツールでしかみていない

   生きるという事は 複雑な感情が入り乱れての生活

     生きて行くための日常生活の仕事がある

    悲しみがあるからと言って  24時間泣いているわけではない

      生きるための作業がある

そのことを認めず ただただ 悲しみという感情の存在だけを気にする

    悲しみという感情が人生の邪魔者のように扱われるのが グリーフケア

      私はそうは思わない

  息子が逝き 深い悲しみを抱えている
  が 深い愛も知った  深い信頼も知った
     人の心の深さも知った

 知らないほうが幸せだった
   知らないで傲慢な人生のほうが幸せだった
     
   でも 知ってしまった今を

      知らない人たちから 憐れまれたくない

       悲しみはいつ突然やってくるかわからない

   幸せな人たちは 幸せなままで生きたらいい

     悲しみを抱えた 人のケアをしなくていい
 できないのだから

    幸せなままで生きて行ったらいい

   

         子供を亡くした 私の悲しみをどうやってケアできるというのでしょうか

  悲しみなんてどうなるのか知らないから
  悲しい時に出る症状を学び
  悲しい時に人があらわす表現を学びたい って

 ずいぶんと傲慢ではないでしょうか

       ご自身の愛する人が亡くなったら  学ばなくても
 学んだ事が役に立たないくらい 深く理解できますから

   一生自分には関係ないことのように 悲しみを学ぶ必要なんてありません

    いつか体験することになりますから

   愛する ご両親 愛する夫 愛する自分

      愛する兄弟 愛する子供

     愛する誰かの死を  自分が生きているうちに体験しますから・・・

      生きているうちに愛する人の死を 一度も体験しない人はいません

   それとも 誰のことも愛していない人生なのでしょうか

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症状と感情

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  自死という問題と関係ないと思って生きている人たちがほとんどだと思う
私も
関係のないことだと思っていた
しかしある日突然 長男健一が自死
  あの日から 自死の問題のど真ん中で生きてきた

自死の対策は国が税金を投入して対策を行っている
その額~300~400億円
 毎年です、毎年。
47都道府県もその中から補助金を受けて対策をしている

その中に「自死遺族の自助グループ等支援」という項目がある
  しかし 自助グループが支援をしてくださいと要望しても拒否する自治体がある
      不思議なことです

 でも遺族たちは自分たちで活動をしている

それも「総合支援」を!!!

 「悲しみ」は消えない
   「愛する」気持ちが消えない限り消えない
愛する気持ちは 家族が死んでも消えない
   亡くなるとよけいに愛が深まる気がする
    喪ってみて こんなにも愛していたことに気が付く
  生きていて当たり前すぎて
    生きていることが前提だから
 
良い面ではなく 欠点だけが目につき 文句を言う
   ほめたりしない
      早く起きて!とか 早く食べて!とか
  酒飲んで!とか 夜遅くまで起きて!とか
      寝てばかりいて!とか
まぁ~いろんな不満をタラタラ言って暮らしている人が多いと思う

傍にいるのがあたりまえの人が  突然逝ってしまい
    なぜ?どうして?

不満を言っていたことが 後悔となる
    取り返しにつかない後悔
自責の念に苛まれる

    こんなにも大切な存在だったのだと 後悔

これほど愛する存在だったのだと思い知らされる

      だから「悲しい」

 愛しているからこそ 沸き起こる悲しいという感情
    それを
  取り除こうとする他者~支援者が増えている

    悲しみを抱えて生きている人たちは 
        愛する人の死から 人への思いやりを学ぶことも多い
  悲しみを 
   亡き人からの愛のメッセージと受け止めて
      生きていることへの感謝と 全ての人への慈しみを持つこともできる

それは悲しみを味わったことがない人よりも
     深い心を持つことになるはず

      悲しみは 悪いものではない
  
   好んで悲しみを抱えたいとは思わないが
       息子からの重たい問いかけだと思って 受け止め続けようと思っている

   私の悲しみは 他者である支援者に とやかく言われたくない
    私と息子との間にある悲しみに 誰も入ることを許さない・・

  悲しみを何とかしようと思う人が増えている日本

        何とかしようと思っている人たちに聞きたい
幸せですか?
 本当に死別の悲しみを体験したことがありませんか?
   かわいがってくれたおばあちゃんやおじいちゃん・・・親戚でも誰も亡くなっていませんか?

 20歳くらいまでの間に  多くの人は
    父母・祖父母・叔父叔母・・いとこ・・級友・知人・近隣住民・・・知り合い
       友人・友人の祖父母などなど・・・
一人の死は経験すると思いますが・・・
   その時 かなしいという気持ちにならなかった人たち
     が
 他人の死別のケアに興味を抱くような気がする

  自分に死別の悲しみの体験があったと思える人は
        その悲しみがケアできるようなものではないと思うはずである

それとも
     自分は特別な存在で 人の悲しみをケアできるとおもうのだろうか

  悲しみに鈍感な人たちが 悲嘆の回復などというものに興味を示す気がする

     かなしいという繊細な感情のケアをしたいと思う人は
            関わってほしくないと思うような人が多いのも皮肉である

  悲しみという感情は自分の心

しかし 悲しみ以外の支援は それぞれの専門家が必要
   やってほしい支援はたくさんある
 
 やってほしい支援には 関心を示さず
       支援できないこころの支援に支援者が殺到する

    人の苦しみや悲しみという  人の心を救うという
まるで神様にでもなったような 救い人に 人間はあこがれるのだろうか
     人々の心を救う人になりたいのでしょうね

  英語のグリーフを悲嘆と訳したことがそもそもの間違い
     グリーフは日本語の悲嘆や悲しみではない
かなしい時に起こる様々な症状をグリーフという
 かなしい 症状と「悲しい」という感情は違う

   泣いたり 涙があふれたり
  叫んだり・・・食欲がなくなったり
  熟睡ができなくなったり
  笑えなくなったり   ・・・・そんな症状をグリーフというのです

それは 年月が過ぎて行くと 少なくなり 消えて行きます

でも・・・でも
 泣かなくなっても 涙が出なくなっても
   食欲も元のようになっても 笑顔でいても

日本語の「悲しみ」は消えていません

     ずっと心に抱えているのです

それを消すことは記憶を消すこと
      
      症状と感情は全く違うのです・・と 言っているのですが
          聞こうとすらしない人たち
   あいまいなままに  いいかげんな内容が
    王道になっていく
その程度の知識で
人の悲しみを、いかにも神様の支援のようにすり替えないでほしい

  ましてや かなしいという感情を知らない人に 
   悲しみのケアなどできるわけもない

 神様や仏様でも この悲しみのケアはできないのですから
  人間に悲しみのケアなどできるはずがない

 自分の悲しみは自分のもの

    一人ひとりの悲しみは 一人ひとりのもの
    亡き人と自分とで 語り合い問いかけ 抱え方を見つけていくだけのこと

   

  

グリーフとは日本語の悲しみではない。

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グリーフケアが商売になっている
   グリーフケアで金儲けができる

グリーフケアというあいまいなケアを学ぼうとする人が増えているから・・

    グリーフケアってどんなケア?

 グリーフって何?

  最近流行りのグリーフの意味と
    そもそもの英語のグリーフの意味が違うことを知っているのだろうか
  多分知らないでしょう
   最初に日本にグリーフケアを持ち込んだ人たちは
   本来の英語の意味を理解していた

 グリーフとは日本語の悲しみではない

     もっと薄いものである

   かなしい時に 泣いたり 怒ったり眠れなかったり
    そんな症状をグリーフというのです

  症状を表す言葉がグリーフなのです
    
    その意味でのグリーフ かなしい時に出る症状は
       時間と共に軽減されます

 2年も三年も・・・毎日毎日 通夜や葬儀の状態で暮らす人はいません
   朝から晩まで
泣いて泣いて 泣き叫び 暮らす遺族はいません

  それでは生きていられません

   症状は落ち着いていきます。

それはケアしなくても 時間と共に落ち着いていきます

    精神薬さえ飲まなければ…落ち着きます

そして泣いている 症状をどのようにケアするのでしょうか

    ケアなどできないのです
遺族本人が泣き止むしかないのです

    そして 絶対に通夜の時のままではありません
 
     そんな症状のケアだと  癒し人の雰囲気にはならない
       癒し人になれるような錯覚が  癒したい人の心をくすぐる
 悲しみにあふれた人々を 癒し 救うためのケアのスキル
が  グリーフケアだと思わせることが巧みな人たちが 専門家らしい

      それを信じ 深く考えもせず  グリーフケアがすばらしいと支援者は思うようです
最近はお坊さんにも広がり 残念な宗教者が多くなっています

     愛する人を亡くした悲しみで 泣いている人に何をしてあげられるのでしょう

      人間ごときが 何もできるわけがありません

神様や仏様でさえも 悲しみを救えない
   お釈迦様は 子供を亡くし錯乱状態にあって 子供をさらって殺していた人に
      誰も死んだことのない家から 種をもらってきなさい・・・
           生き返らせてあげようと言われた
しかしどこにも 誰も人が死んだことのない家はなかった
   そうです
   私たちは 命を引き継いで生きています
  父母~祖父母~曾祖父母~~~何代何十代にわたり引き継がれて今を生きています

     グリーフとは
日本語の悲しみとは違う意味であることだけでも知ってほしい

   日本語の悲しみがグリーフだと考えている人たちが
   最近のグリーフケアブームを作っている

 愛する人の死  その悲しみはケアできません
    悲しみを薄くするのですか?
それは 愛している気持ちの否定です
  私が息子をいつまでも重い悲しみ続けているのは 息子を今も愛しているから
      私は悲しくていいと思っている
なぜなら 今も深く息子を愛しているから
    楽にならなくてもいい
   息子をずっと深く愛しつづけたいから

  私が悲しいことで 誰にも迷惑をかけていないはず
  なぜ 他人がの悲しみをケアしたいと思うのかわかりません

  お坊さんといえども 悲しみには触れてほしくありません
      お釈迦さまや阿弥陀様を差し置いて  ケアしようなんて
          御仏の教えを軽く見ていませんか?

    私は浄土宗の教えを信じていますので 阿弥陀様法然上人の教えを学び信仰したいと思っています
       その教えは 息子を救い 私も救われる教えです
 しかし まだ教えの深さに到達していません
  だから 苦しみ悩みもがいています
   でも  グリーフケアで諭されるのは まっぴらです

   御仏の教えは  ケアではありません
        信じる心を持つこと・・・信じきれたら救われる教えです

   信じ切れていませんが・・・

      宗教者は御仏の教えの専門家になってもらいたい

    症状だけのグリーフなんて  お経の教えに比べたら浅すぎて・・・

      多分  想像ですが  お経の教えを究めるのは 難しすぎて 深められない人が多いのかな・・

     その中にも 努力して宗教者として 人柄も素晴らしい方たちもいます
        尊敬します
    若い人であっても すばらしい志の僧侶もいます

    本物が生き残る社会を作っていきたいと強く思っています     

悲しみもまた 私のもの

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「悲しみもまた私のもの」
                       岡知史 エッセイ

 悲しみに沈んだ人がいる。その人を見るにみかねて助けたいという人が現われる。「どんな悲しみがあるか知れないけれども、時が解決してくれるものだよ」とか、「物事は考えようだよ。この美しい青空を見てごらんよ」と言葉をかけて励ますのだが、悲しみに沈んだ人は、いっこうに耳を傾ける様子はない。そして「私の悲しみも私の一部です。私が私の悲しみとむきあってすごしている静かな時間を乱さないでください」と言う。

 悲しみにある人がしばらくそうしていると、今度は「心を癒すことが仕事だ」という人々が現われる。そして、こうすれば悲しみを乗り越えられるという方法を教えようとする。彼らが示すのは「悲しみからの回復」である。どうやらそこには階段があるらしい。彼らが言う通りにすれば、階段を一歩一歩のぼるように、悲しみから回復できるのだという。

 しかし、悲しみにある人は、それは登れるような階段ではないことを知っている。深い穴の中なのか、高い山の頂上のようなところなのかはわからないが、身動きできないことは確かなのである。

 愛する我が子を自死で亡くした親の気持ちは、きっとそのようなものだろうと私は想像している。その悲しみは時が解決してくれるものでもなく、「時がたつにつれて、ますます深まっていく悲しみがある」と、息子を亡くしたお母さんは私に語っていた。

 癒されるうる悲しみがある一方で、どうしても癒されない悲しみがある。一人娘を自死で喪ったお父さんは「私は遺族ケアとか支援とかという言葉は嫌いなのです。(私の悲しみは)ケアされようがない、支援されようがないのです」と語っていた。

 現在、自死遺族ケアの必要性が多くの専門家によって指摘され、法律も行政がそれに取り組むように指示している。しかし、そこには「ケアされようがないほどの深い悲しみがある」という可能性は考えられていない。「どんな悲しみでもケアによって軽減される」と誰かが経験的に証明したとでもいうのだろうか。
 唐突だが、私はここで「障害もまた私の個性である」と身体障害者たちが主張し始めたころの、医療・福祉関係者の戸惑いを思い出すのである。障害者にかかわる「専門家」の使命は「障害を無くすこと。無くせなくても軽減させること」であった。だから「障害も私の一部だ」と障害者たちが言い始めたとき、「専門家」は自らの専門性を否定されたようにも感じたに違いない。

 たしかにリハビリテーションや手術によって軽減され、あるいは無くなる障害もある。しかし、そうでもないものもある。無くならない障害を正面から受け入れ、それがかけがいのない自らの一部として組み入れたとき、社会を大きく動かす障害者運動が始まったのである。

 自死遺族の市民運動も「悲しみは私たちのもの」と高らかに宣言するとき、力強い一歩が始まるのかもしれない。訓練で身につけた技法や頭で覚えた理論など、人間が後で身につけたもので、人生の最も深淵な死の悼みを救えるはずがない。それを認めたいか認めたくないかにかかわらず、ダチョウが空を飛べないように、蝶が水中を泳げないように、遺族ケアはある人々の前には無力であることは否定できないのではないか。生死の根源の苦しみを自ら体験した者だけがもつ威厳に、「専門家」は沈黙するしかない。それを「救える」と考えること自体がおこがましいのだ。

 「障害も個性の一つ」という考えは、社会的に広がっている。それでもリハビリや医療の重要性は誰も疑っていない。両者は共存できるのである。遺族ケアも「悲しみは私たちのもの」という遺族の主張を認め、それを前提としたときにこそ新しい段階に進むのだろう。




◆ 岡知史氏と出会い、交流が深まる中で、このエッセイを頂いたとき、涙が溢れたのを思い出します。遺族の多くは、「悲しみもまた私のもの」という言葉に救われています。
「私の悲しみは私のもの、誰のものでもない私のもの、だから悲しみはそれぞれでいいのだ、何年たっても涙が溢れてもいい、それは私のものだから。」
                             田中幸子
プロフィール

藍たなけん

Author:藍たなけん
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仙台に住んでいます。
青森県津軽生まれ、B型 うお座 
主人と二男と3人暮らし
自死で長男を亡くしてます。
「悲しみは愛」「悲しみは愛しさと共に」「悲しみは私の体の一部」「悲しみを奪わないで」「悲しみを消そうとしないで」などを広めています。

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