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自分の悲しみを他の誰かに委ねることはできない 

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自分の悲しみは自分が一番よくわかっている
 誰よりも・・・
自分の悲しみの専門家は自分

「悲しみ」という一般的な理論の専門家ではないが

 私は私の悲しみについては
言葉にならない思いも含めて 私自身が最も知っている

  嫌な部分も 含めて 自分が知っている

   そして 一人ひとり 違う
  同じような感情もある
     でも
同じ状況でも感じ方はそれぞれ違う
  同じ自分でも
   その時々で感じ方が違う

   心とは一秒・一秒違う

1か月1度 1時間・2時間のセッションで
   私の悲しみの何が理解できるというのだろう

  理屈で悲しみはどうにもできない

 理屈抜きでかなしいのだから

     こんな時はこんな風になります・・といわれても

   こんな時はこんな風になるのは わかりましたが
    こんな風になった悲しみを
  どのような方法で
どのようにしてくれるというのでしょうか

    と 聞くと 

沈黙する心の専門家たち

  こんな悲しみの時は  どうしたらいいのでしょうか
  ときいても
  沈黙されてしまう

 悲しみの症状は  自分が当事者なので

 教えてもらわなくていい

この間の尿管結石で叫ぶくらい痛い時に
医師が
 尿管結石の痛みとは こんな風に痛いんです
と言ったら
  そんな説明はいいから
いま痛いこの症状を何とかして!と  叫ぶかもしれない

医師は本人から症状を聞き
 痛みの緩和のために クスリの処方をする

では
悲しみはどうなのでしょう

 悲しい人に
 悲しみとはこんな風な症状が出て
    こんな時にこんなふうに感じますよ・・・と
説明
  そのあとは・・・

 保健師や精神科医だと
   精神薬をすすめるだけ

    尿管結石の場合はその原因となっている結石を取り除く薬や
    生活方法が指導される

悲しみの原因となっている
   息子の死(私の場合)は 取り除けない

  生き返ってこない限り  どうにもならない

クスリを飲んでも 息子は生き返らない
  生き返らない限り 私の悲しみは取り除けない

では
  グリーフケアの専門家や
 精神科医たちは
    私の悲しみを どうしようとしているのでしょう

   どうにもできない事を
  どうにかできるかのように 
     いうのは
極端に言えば
詐欺です

  同じような体験をした遺族の話を聞き
    
  悲しみをどう抱えて生きていくかを
 自分自身が決めるしかない

宗教で救われる人もいるかもしれない

    が
      それらも含め 自分の悲しみは自分で抱えていきるしかない

自分の悲しみを他の人に委ねることはできない

自分の痛みがを他の人に譲ることができないように

   私の悲しみはわたしのもの

 私と息子の間にある悲しみだから・・・

他の誰のものでもない
   
    


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遅延性悲嘆とか複雑性悲嘆・曖昧な悲嘆論を信じている人たち・・・・・悲しみを知らない人たち

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2006年に活動をはじめた時からの付き合いの新聞記者
 編集委員
 たくさんの自死遺族の連載もして頂き
   震災の遺族の事も記事にしてもらった
14年の付き合いの人
まさか
「遅延性悲嘆」という本を推薦するとは思っていませんでした
 福島の心療内科の医師が書いた本

自死遺族も 震災の遺族も
  遅延性悲嘆とか曖昧な悲嘆とか複雑性悲嘆という言葉で
  どれほど傷ついてきたのか・・・
   遺族から直接 たくさん聞いたはず

また上智大学の岡教授とも面識があり
   講演も何度も聞き
     論文も読んでいるはず
「グリーフケアは要らない」という論文も知っている

  グリーフ・イズ・ラブ
悲しみは愛
  悲しみと共に生きていく
     悲しみもまた私のもの

など  長年 聞いてきたはず

なのに
  なぜ遅延性悲嘆という本がすばらしい本だと推薦するのだろうか

 私たち遺族の前では
    その通りです・当事者の声は大事ですといいながら
    心の中では
    彼もまた  その辺の 支援者と同じように

行方不明の遺族も含めて
 お別れを言えなかった死別の悲しみを

 ずっと続く悲しい気持ちを
     遅延性悲嘆  複雑性悲嘆 曖昧な悲嘆
として見ていたのかと思うと
   あなたもですか・・・・・
      と
彼の
   記事が・・書いた本も
      上っ面の 表面だけの やさしさと
 作られた思いやり

亡き人への気持ちなんて 何にもないんだと・・・・

   人を信じて  は  

     傷つき
          何度も信じては傷つき

  息子が逝き たくさんの人達との出会い

 たくさんの人と出会うと
  たくさんの傷つきもあり
たくさんのまなびもあり
たくさんのすばらしい人たちとの出会いもあり

今回も
あなたもですか・・・・・・という思いと

 やっぱりね・・・・という思い

 信頼して多くの遺族をつなげてきた14年

    日本人は なぜこんなにも グリーフケアが好きなんでしょう

   人はどこかで 死という別れは 他人事のように・・・感じている
   自分は死なない
     自分の家族は死なない・・と

   死は身近にあることを  見ようとしない

  悲しみが 自分のものになる日があることを想像もしない

 
  それが 今かもしれない
 明日かもしれない

 それがいのち

 50回忌を迎えた実の娘の命日に泣いていた
  育ての母
      世界で一番尊敬する母
 そんな母も逝ってしまった

 孫の息子と会っているのだろうか・・・

 人間として当たり前の 悲しみを
  遅延性悲嘆とか複雑性悲嘆とか あいまいな喪失という言葉で
       語ってほしくない
    その言葉がどれほど 遺族を傷つけているのか
  理解できない
心療内科の医師も
      出版社も
推薦している文筆家も

    いつか  自分の愛する家族の死を体験した時

   悲しみが続くことを 知るのでしょうか

悲しみは乗り越えるものではない

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死別の
 悲しみを乗り越えるにはどうしたらいいのか…と聞かれることが多い

 悲しみは乗り越えられないと答える
  悲しみは抱えて生きていくしかないという
愛しているからこそ悲しい
  愛が消えなければ 悲しみも消えない
  亡くなっても愛する気持ちは変わらないいつまでも・・・・

抱え方は人それぞれ・・・
   どのようにして抱えて生きていくかは  
その人と亡き人との間で決めるしかない

 そして人の気持ちは揺らぐもの
    
   悲しみをごまかして生きていても
  突然 悲しみにつかまってしまう

   深い深い底なし沼のような悲しみに落ちてしまうこともある

  活動をはじめて間もなくの頃は
    歩いていて 突然力が抜けて  ヘタヘタと地面に座り込んでしまう事もよくあった
      講演に行く途中で
         胸が苦しくなり 突然泣き出してしまう事もあった

今も 時々 無力感に苛まれる

  でも 踏ん張る 

    でも立ち上がって歩く

息子のために 
  自死で逝った息子のために

 やるべきことがある

   次の遺族たちに 託すためにも
      道は拓かなければならない

後 10年・・・は  頑張らなければ・・・

 私の 悲しみは愛しい息子とわたしの間に存在する

   息子への懺悔の生き方は
       なかなか厳しい
 人は大好きで
   裏切られても  んんん???と思う事が多々あっても
      知らんふりして
    付き合うことはできる
 何度も何度も
   見て感じても  いいところを見ようと思う

でも でも
  限界はある

悲しみを抱えていても 他の 感情もある

生きているから・・・

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愛を知らないグリーフケア

miyamakaidou[1]

グリーフケアってなに?

 私はグリーフケアの専門家に傷つけられてきた

  本を読んでも 専門家と話しても
     傷ついてきた

   悲嘆・・・という表現が嫌い

   かなしい  か・な・し・い
    悲しい 哀しい カナシイ 愛しい(かなしい)

   愛しいという文字でかなしいと読むのが一番しっくりくる・・・かな・・・

それでも 足りない

 人間が作った言葉では表現できない感情があることも事実
    
   深い深いかなしみを  悲嘆 なんて 文字で言葉で表現し
   しかも悲嘆の回復という考え方  
   悲嘆からの回復って何ですか

   愛する子供が亡くなり 今でも悲しい
     11年が過ぎても 悲しみは消えない
      消えるわけなどない
今でも健一を愛しています
  だから この世にいない健一に会えないことがかなしい

    悲しみがあっても 普通に元気に明るく生きています

   グリーフケアを学んでいる人たちは
    人の感情を 生きるという事を
        悲しみというツールでしかみていない

   生きるという事は 複雑な感情が入り乱れての生活

     生きて行くための日常生活の仕事がある

    悲しみがあるからと言って  24時間泣いているわけではない

      生きるための作業がある

そのことを認めず ただただ 悲しみという感情の存在だけを気にする

    悲しみという感情が人生の邪魔者のように扱われるのが グリーフケア

      私はそうは思わない

  息子が逝き 深い悲しみを抱えている
  が 深い愛も知った  深い信頼も知った
     人の心の深さも知った

 知らないほうが幸せだった
   知らないで傲慢な人生のほうが幸せだった
     
   でも 知ってしまった今を

      知らない人たちから 憐れまれたくない

       悲しみはいつ突然やってくるかわからない

   幸せな人たちは 幸せなままで生きたらいい

     悲しみを抱えた 人のケアをしなくていい
 できないのだから

    幸せなままで生きて行ったらいい

   

         子供を亡くした 私の悲しみをどうやってケアできるというのでしょうか

  悲しみなんてどうなるのか知らないから
  悲しい時に出る症状を学び
  悲しい時に人があらわす表現を学びたい って

 ずいぶんと傲慢ではないでしょうか

       ご自身の愛する人が亡くなったら  学ばなくても
 学んだ事が役に立たないくらい 深く理解できますから

   一生自分には関係ないことのように 悲しみを学ぶ必要なんてありません

    いつか体験することになりますから

   愛する ご両親 愛する夫 愛する自分

      愛する兄弟 愛する子供

     愛する誰かの死を  自分が生きているうちに体験しますから・・・

      生きているうちに愛する人の死を 一度も体験しない人はいません

   それとも 誰のことも愛していない人生なのでしょうか

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症状と感情

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  自死という問題と関係ないと思って生きている人たちがほとんどだと思う
私も
関係のないことだと思っていた
しかしある日突然 長男健一が自死
  あの日から 自死の問題のど真ん中で生きてきた

自死の対策は国が税金を投入して対策を行っている
その額~300~400億円
 毎年です、毎年。
47都道府県もその中から補助金を受けて対策をしている

その中に「自死遺族の自助グループ等支援」という項目がある
  しかし 自助グループが支援をしてくださいと要望しても拒否する自治体がある
      不思議なことです

 でも遺族たちは自分たちで活動をしている

それも「総合支援」を!!!

 「悲しみ」は消えない
   「愛する」気持ちが消えない限り消えない
愛する気持ちは 家族が死んでも消えない
   亡くなるとよけいに愛が深まる気がする
    喪ってみて こんなにも愛していたことに気が付く
  生きていて当たり前すぎて
    生きていることが前提だから
 
良い面ではなく 欠点だけが目につき 文句を言う
   ほめたりしない
      早く起きて!とか 早く食べて!とか
  酒飲んで!とか 夜遅くまで起きて!とか
      寝てばかりいて!とか
まぁ~いろんな不満をタラタラ言って暮らしている人が多いと思う

傍にいるのがあたりまえの人が  突然逝ってしまい
    なぜ?どうして?

不満を言っていたことが 後悔となる
    取り返しにつかない後悔
自責の念に苛まれる

    こんなにも大切な存在だったのだと 後悔

これほど愛する存在だったのだと思い知らされる

      だから「悲しい」

 愛しているからこそ 沸き起こる悲しいという感情
    それを
  取り除こうとする他者~支援者が増えている

    悲しみを抱えて生きている人たちは 
        愛する人の死から 人への思いやりを学ぶことも多い
  悲しみを 
   亡き人からの愛のメッセージと受け止めて
      生きていることへの感謝と 全ての人への慈しみを持つこともできる

それは悲しみを味わったことがない人よりも
     深い心を持つことになるはず

      悲しみは 悪いものではない
  
   好んで悲しみを抱えたいとは思わないが
       息子からの重たい問いかけだと思って 受け止め続けようと思っている

   私の悲しみは 他者である支援者に とやかく言われたくない
    私と息子との間にある悲しみに 誰も入ることを許さない・・

  悲しみを何とかしようと思う人が増えている日本

        何とかしようと思っている人たちに聞きたい
幸せですか?
 本当に死別の悲しみを体験したことがありませんか?
   かわいがってくれたおばあちゃんやおじいちゃん・・・親戚でも誰も亡くなっていませんか?

 20歳くらいまでの間に  多くの人は
    父母・祖父母・叔父叔母・・いとこ・・級友・知人・近隣住民・・・知り合い
       友人・友人の祖父母などなど・・・
一人の死は経験すると思いますが・・・
   その時 かなしいという気持ちにならなかった人たち
     が
 他人の死別のケアに興味を抱くような気がする

  自分に死別の悲しみの体験があったと思える人は
        その悲しみがケアできるようなものではないと思うはずである

それとも
     自分は特別な存在で 人の悲しみをケアできるとおもうのだろうか

  悲しみに鈍感な人たちが 悲嘆の回復などというものに興味を示す気がする

     かなしいという繊細な感情のケアをしたいと思う人は
            関わってほしくないと思うような人が多いのも皮肉である

  悲しみという感情は自分の心

しかし 悲しみ以外の支援は それぞれの専門家が必要
   やってほしい支援はたくさんある
 
 やってほしい支援には 関心を示さず
       支援できないこころの支援に支援者が殺到する

    人の苦しみや悲しみという  人の心を救うという
まるで神様にでもなったような 救い人に 人間はあこがれるのだろうか
     人々の心を救う人になりたいのでしょうね

  英語のグリーフを悲嘆と訳したことがそもそもの間違い
     グリーフは日本語の悲嘆や悲しみではない
かなしい時に起こる様々な症状をグリーフという
 かなしい 症状と「悲しい」という感情は違う

   泣いたり 涙があふれたり
  叫んだり・・・食欲がなくなったり
  熟睡ができなくなったり
  笑えなくなったり   ・・・・そんな症状をグリーフというのです

それは 年月が過ぎて行くと 少なくなり 消えて行きます

でも・・・でも
 泣かなくなっても 涙が出なくなっても
   食欲も元のようになっても 笑顔でいても

日本語の「悲しみ」は消えていません

     ずっと心に抱えているのです

それを消すことは記憶を消すこと
      
      症状と感情は全く違うのです・・と 言っているのですが
          聞こうとすらしない人たち
   あいまいなままに  いいかげんな内容が
    王道になっていく
その程度の知識で
人の悲しみを、いかにも神様の支援のようにすり替えないでほしい

  ましてや かなしいという感情を知らない人に 
   悲しみのケアなどできるわけもない

 神様や仏様でも この悲しみのケアはできないのですから
  人間に悲しみのケアなどできるはずがない

 自分の悲しみは自分のもの

    一人ひとりの悲しみは 一人ひとりのもの
    亡き人と自分とで 語り合い問いかけ 抱え方を見つけていくだけのこと