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子供を亡くした親の思いは、若者の自死を防ぐ

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全国自死遺族連絡会のホームページに掲載している
 遺族の声
これを読んだ人が
  「生きよう」と思ってくれた

そんな思いを  メールで送ってくれた人がいた

 「生きて」と願うという全国自死遺族連絡会の目標に掲げたことが実現している

自死がテーマのシンポジウムも講演会もフォーラムも
 誰でもが参加できる会の目的の一つは
    参加した人が 一人でも
 「生きよう」
   「生きてみよう」
     と思ってくれること・・・

  だから
       歌や踊りや落語などは やらない

  自死という問題は重たいから
 歌や踊りをいれて
     楽な気持にならないといけない・・・とかで
   楽しい雰囲気を取り入れる団体や機関が多いが

 一緒にやるものではないと思っている

歌や踊りはそれはそれでやったらいい

自死の問題と一緒には
   できない

  なぜなら

苦しくてくるしくて  どうにもならない人も参加するかもしれない
私自身が
   息子を亡くして
自死や精神・・メンタルといった
  シンポジウムや講演会にすがる思いで参加したことがあるから

これまで数多くのシンポジウムやフォーラム講演会を開催してきたが
  ほとんどの会合に
     自死という問題に直面している人の参加がある

   参加して生きようと思いました‥生きていいんだと思いましたと言われたとき
    開催した意味を感じます

 どんな人たちが参加するのか・・・・・
    それを想いながら  内容を決める・・・・・・・


9月の日本・ポストベンション・カンファレンスは
全大会は私が内容を決めたけど
分科会は
 担当団体にお任せをした

ほとんどは 主催側の意に沿った内容だった

ひとつだけ
  本当に心から申し訳なく反省している分科会がある

そもそも その団体については
   自死遺族支援という活動から手を引いてもらいたいと
  ずっと思っていたが
その連合のトップが
すばらしい人格者で 尊敬できる人なので
  外すことができず
   まぁまぁ なんとかなるか・・・と思ったのが 甘かった

今後、二度と 一緒にやることはないと思う

9月を迎えるまでのやり取りでも
  偉そうで
  分科会の依頼をするんじゃなかったと思った・・・が
時すでに遅し
いざ  分科会
   その内容
講師がボランティアのスーパーバイザーらしく
   チョー偉そう
  自死遺族が参加していることを知りながら
  自死遺族の思いそのものを侮辱

死に方を聞いたり
死後の説明をしたり
   研究のためと言ったり

こんな人に教えられているボランティアの人たちだから
  偉そうで
    遺族をさげすみ
        小ばかにしているんだ・・・と
   納得

  連盟の理事長に報告はする

    改善を要望する予定

  参加した遺族が吐き気がし
   体が震えるほどの嫌悪感でいっぱいで
  日にちが過ぎても
      消えることのない傷となっているのが
許されない
自死遺族支援の支援者のスーパーバイザー
   と 自負するなら
 自死遺族の抗議も真摯に受け止めてもらいたい

 しかし
この団体よりもひどい団体もある

   自死遺族が自死遺族のために
      立ってほしい
と願う

  わかちあいは  自死遺族同士だから成立する
    自死遺族以外の人がいる空間では
   分かち合いにはならない
ミーティングや
カウンセリング は できる が
分かち合いはできない

  自死遺族と悲しみのない幸せな人で
     どうやって
   悲しみや苦しみを 分かち合えるのだろうか

 自死遺族の悲しみや苦しみを
    幸せな支援者が聞いてくれて
        お辛いですね・・・そうなんですね
       つらかったですね
      泣くといいですよ…涙は大切です
    そんなことが・・・
       悲しいですね…頑張ってこられたんですね
   ご自分をあまり責めないように・・・
       とか
いわれ
    自死遺族は 支援者の何を聞いてあげるのでしょうか

   幸せな話をされても仕方がない

    一方的に 自分の話を聞いてもらう

 それは
 分かち合いではない

分かち合いとは
 お互いに同じ悲しみ 同じ苦しみを
 聞き 聞かれ  話し 話され
  相互扶助の関係
共通する同じ思いがそこに存在してこそのわかちあい

例えば
 酒好きの人と酒好きが お互いに酒の話をして
   わかちあう
また
 山登りが好きな人が同じように山登りが好きな人と
 山の話をしてわかちあう

 それが
 酒好きと酒の飲めない人が
   どうやって酒の話で分かち合えるのか

山登りも同じ
 山が嫌いな人と山が大好きな人では
山の話で分かち合えない

  それと同じ

悲しい人が 悲しみを抱えていない人と
  どんな悲しい思いを分かち合えるのか

悲しいだろうな~~~~~という想像の人と
  悲しいという言葉が軽く感ずるほどの かなしみを抱えた人とで
どうやって
悲しみをわかちあえるというのだろう

 支援者に聞いてみたい

  私の悲しみと あなたの何を分かち合うのか・・・と

居場所を作ってほしいと
切に願う

  わかちあいに参加して
      すこしでも  支えられたと思った遺族がいたら
 遺族のための
居場所を作ってほしい

 と

願う

   そんな人たちが  
     現れてくれることを
  願う

   そうすることで

必然的に
支援団体のニーズはなくなり
   行政の遺族の会も必要なくなり

   分かち合いは遺族だけ

他の支援は支援団体や支援機関が担う

 と
役割分担ができていくはず

   変なスーパーバイザーに傷つけられることもなく
 偉そうに
 蔑まれることなく

   自立ができる

そうすると
自死遺族の悲しみが  病気という概念もなくなる

    

   
  
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蔑まれないように…生きる 亡き人のために。

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遺族の相談に
 時々厳しいことを言っている自分がいる

ほんわりと やさしく やさしく
    いえばいいのかもしれない

 しかし
 先がみえるから
    本音でいう

元気になってほしいから
  本気で言う
家族のように

幸せにはなれっこない
  なれない

元のような幸せは 来ない

青い空をみても悲しいですね・・といった53歳の息子さんを亡くした90歳の父親
  
   90歳になったその時も  老人クラブには入らず
      いろんな会に参加していた
姿勢のいい90歳の男性

   87歳の妻を案じ 介護をしていた

妻のほうが 自分よりも悲しいと思います、おなかを痛めて産んだのですから・・とも言っていた

  ストレスで病気になる遺族が多くいる

 末期といわれても
 一日でも 長く生きていてほしい
   いつも願い 祈っている

だから
  様々な病気になる副作用がある
精神薬は飲んでほしくない

  それでなくても
ストレスで 病気になる確率が高い遺族に
   さらに確率がアップする精神薬を処方するのは
      ひどい人たちです

しかも 治せもしないのに

  悲しみの治療とはなんでしょうか

 悲しみを病理化すると
   医師や、臨床心理士のほうが
遺族本人よりも悲しみの専門家となる
病気だから・・・・

ある自死遺族支援の代表は
会議でよく「遺族の支援には認知行動療法が必要です、私たちはそれを実行しています」
 と・・・・
この人は
  何か所もの行政の遺族の会に講師として呼ばれている
ということは
そこの行政の遺族の会は
  認知行動療法をやっている
ということは
 自死遺族を病気だと病人だと思っている

 だから いつも  偉そうに
  いつも上から目線

   遺族をさげすんでいる

亡くなった人の尊厳を守るためにも
    自死遺族にはプライドを持ってほしい

   自分たち遺族がさげすまれるということは
     亡くなった人たちが蔑まれるということですから

苦しんで死んだのに
   死んでまで  さげすまれるなんて

  許されない

   自責の念があるなら
      亡くなった人の尊厳は 生きている人が守ってあげないと
     なんのための自責の念でしょう

  亡くなった人のために
      差別や偏見 さげすみの世間の目をかえるためにも
    悲しみを抱えて
    毅然と生きていきませんか

    私の悲しみは 私のもの
       愛しいもの
 消すなんてとんでもない
     愛を悲しみを取り除かないでください

 と
生きていきませんか

   あ!
また 厳しいことを・・・・・・・・・

午後 東京に行きます
  自死遺族等権利保護研究会

悲しみは愛しさ


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上智大学の岡知史教授とのつながりは
    自助グループの活動の大きな支えになっている
悲しみは愛しさという言葉は
   大切な表現
全国自死遺族連絡会の心
グリーフケアではなく
  グリーフ・イズ・ラブ

  愛する人を亡くした悲しみは 「愛しい」とかいて」「かなしい」と読む
岡先生が最近書かれた文書から
部分的に抜粋しました   
   
悲しみが悲嘆と言い換えられ、それが「反応」や「症状」と見なされてしまう危険性について前章で述べた[i]。悲しみは、人間にとって意味が深く、大切なものなのである。決して「反応」や「症状」として処理されるべきものではない。

 「悲しみは私の身体の一部」そんな悲しみが専門家と称する赤の他人によって、無遠慮にいじられ、批評され、「どういう段階にあるか」などと評価されたくない

 「かなし」とは、
現代ではほとんど「悲しい」の意味で用いられるが、
「愛し(=いとおしい)」から「悲し」という変遷をたどるのではなく、「愛情」と「悲しみ」の心は根っこのところではつながっている。

なぜ愛と悲しみがつながっているのか。古代において、なぜ一つの言葉として成り立っていたのか。竹内整一の「かなしみの『哲学』」という本。それによると古代の「かなしみ」は「人間の、思いのかなわなさ、あるいは届かなさ」と結びついていた[。その「かなしみ」の性格を理解すれば、平安時代に書かれた「伊勢物語」の、一人っ子の我が子を「かなしく」したという親の思いも見えてくる。

一人っ子であったからたいへん「かなしく」した、と。
何をしても足りないほどかわいがる、ものすごくいとしい、という意味である。
「ああ、この子はもう十分かわいがった」というのは「かなしく」はないのである。
そうでなく、どんなにかわいがってもかわいがり切れないほどにかわいい、ということが、「かなし」ということである。
ここにも基本的に、ある届かなさがある。届かないほどの切ない「いとしさ」が「かなし」なのである。



 自分の存在と重ねてしまいたいと思うほど愛しい人がいても、現実には重ねることができないという悲しさがあり、そこに愛(いと)しさと悲しさが一つになる。亡き人に「会いたい」と切に願う遺族の思いにおいて、悲しさは、まさに愛しさそのものだろう。

自死で愛しい人を亡くして精神科に行く人が多い
  それを 防ぎたいとおもっている
精神薬を飲んでも
悲しみは回復しない
   そもそも 悲しみからの回復などはない

回復は生き返ってくることだけ

   精神薬を飲んで悲しみが消えていいのだろうか

子供が自死で逝って
   1か月か2カ月で
悲しi
気持ちが消えた!ことを
   よかったと喜ぶのだろうか
  医師も お子さんが死んで悲しかった気持ちが
   消えてよかったですね・・・というのだろうか

   どこか変です

悲しい気持ちは愛しているから起こる気持ち
 見たこともない人たちが何人死んでも
    自分の家族が亡くなった時のように悲しくはない

それは 見たこともない人たちと自分の間に愛情がないから

それが普通

 悲しみは消えてほしくないと思っている

息子が亡くなったことが 悲しくない親にはなりたくない

   それでも
  時間は残酷で
     少しずつ 自分優先になっていく

  悲しみに慣れていく

毎日のように
 新しく遺族のつながりがある

  悲しいご縁は増えていく

    心が痛い

 

心に余裕のない時は・・・・

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人にやさしくなれそうにない心境の時もある
そんな時は
   電話に出ないほうがいいと決めている
めったにないが
 1年に2~3回ある

  苦しい人、悲しい人に思いをはせられない自分を感じたときは
    他者との対応を自分に禁ずる

  そんなとき、以前は行きつけの店で飲んでいた
  他愛もない話をして
     もやもやを発散してきた

   それでも 発散できない時
     誰もいない場所で 大声で叫ぶ
  ただただ  大声を出す

あ~~~~~わ~~~~~と
しかし最近はコロナで難しい

  
   表現は難しい
誰かを責めたつもりはなくても
   誰かが責められたと感じたら  それは責めたことになる
だからといって
   あなただって・・というと
エンドレスで言い合いになる

  そこに 愛があれば
 多少のことは 許せるのだとおもうが
   愛のない関係においては
     理解は難しい

 愛までいかずとも  尊敬の念があれば 許せる

  許せないということは 尊敬の愛もない関係に過ぎない

 ある遺族の話
その人は超まじめで 一生懸命で
   いい加減なことが嫌いな人

 きちんとした性格
   ある時のフォーラム
わたしと同じ部屋だった
しかし
私は遺族と飲みすぎて他の部屋で朝まで語り合い
 その人と自分の部屋には朝帰り

たぶん その人には とんでもないことで
  許されない行為だったと思う

 嫌な顔もせず
   朝まで帰らなかったみたいね・・・と。

 はい、すみません 酒臭かったでしょ・・と

それでおしまい

  その人は わたしを信頼してくれている
      わたしもまたその人を尊敬している

 そうやって14年と半年以上のお付き合いをしている

 人が大好きな私は
   人に裏切られ 人に蹴落とされ
足を引っ張られ
   ることも よくある

その反面
 とても私にはできない寛大な心の人との出会いもある
   やさしい思いやりのある
人との出会いも多い

   世の中は思い通りにならないことばかり

美辞麗句が苦手な私は
  
  ほめ合いもできないが
   裏切りはしな発散

裏切られることはあるが
裏切りはしない

  息子たちも同じ

長男は感受性も強く
 繊細
     酒も飲まず
 煙草も禁止 パチンコも禁止
   小遣いは5千円(一か月)
働き働き
家族を大事にし
   ただただ 真面目に暮らし
心が疲れすぎたのだろう


   人への思いやりって
なんだろう

 言葉で伝えなければわからないが
   その言葉も表現力がないと誤解を招く

  リアルに会って話すことが 大事だと思うが
 
   最近の社会は リモート社会

  自死の対策は
 リモートではできないことが多い

 コロナ社会は日本の社会の
生きづらさを増長させていく


  私自身
       の
心の余裕を回復させないと
   活動は止まってしまう

今日は午後2時から
 差別禁止法のためのリモート会合がある


  

悟れない、煩悩満載の日々

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以前にも何度か書いたことがあるが
 文字・言葉・文章で 自分の思いを正確に伝えるのは難しい
細かな部分まで書くと、長々と説明が必要になる

 簡潔に書くと 深い思いは伝わらないことがほとんど

 〇〇さんのことを書いても▽▽さんが読んで思い当たることがあると
    ▽▽さんは自分のことだと思う
 一般的なことを書いても
  自分のことを書いてると思う人がいたら
     自分のことを書いたよね・・となる

なかなか 難しい
 
そして 私は メルヘンチックな文章は苦手で かけない
  女性らしい女性の表現は 声での表現も 文字での表現も 全くできない

 理数系といわれることが多い
   だが
 性別は女性
 
 そんなわけで たまに 厳しいご意見を頂戴し
  お叱りを受ける


言い訳ですが
これまでも ずっと書いているが
  本当に様々な(精神薬の相談が多い)相談が多く
遺族に限定しようとしているが
   電話番号を公開(携帯2個・固定電話2個)
メール相談も各ホームページ(5~6個)から届く
  遺族かどうかの判断が電話番号ではできない
 電話に出てから
あ!遺族ではないんだ・・と思うが
   出たからには 相談に応じている

「会いたい」の本の発送も・・・

 毎日電話が5~15ある
メールは20~30通
 手紙もある

会議もある
 申請も報告も 会議室の予約も
   数年前から 活動の対応はパンクしている
 そのことで
   丁寧な対応ができないことも多く
      ご迷惑をおかけしていることも多い

失礼なことも 多々していることは自覚している
 71歳が過ぎ
    集中力の衰えは感じる

一人ひとり 皆さんのお力をかりながら
    活動をしているが
 やらなければならないことが多すぎて・・・・
日々自分のやれていないことへの不満はある

夫にも
  お前ごときに何ができるんだ!
何様のつもりだ!
 偉そうに!

いわれ続けて50年

 男尊女卑に満ちている人
    差別意識もものすごい

結婚50年でも やはり慣れない
そんな中で
 長男も次男も 優しい子に育った
それはある意味 わたしの結婚生活が反面教師となったのだと感じる
女性には優しく思いやりを持って・・と
育ててきた

話がそれた
(いつもことですが)

 私は私の性格もあって
    スタッフという形をとらないで活動をしている
  他者に厳しくなる気がするから
    私自身 自分が相手に対する言葉や態度で
      傷つけていないという自信はない
   私も相手の言葉で傷つくことも多いからこそ
 おおらかでいようと思い生きてきた
   失敗も
  言葉遣いも
   目上に対する態度や言動も
 上っ面ではなく
 心が言動に現れるからこそ
   細かなことは気にせず
いいあんばい  いいかげん
   ゆるし許され
 と


細かなことを気にすると
際限なく 気になってしまう

人間は不完全だから
   まぁまぁ~~~~~という気持ちで・・・

しかし
 そのこともまた 配慮にかけた ことにもなってしまうこともある

  私の活動の一つに「つなぐ」ということがある
専門家や遺族にも
 しかし
 それは
つねに お願いと感謝
  批判は覚悟
ありがとうございます。よろしくお願いします。
お世話になります。感謝申し上げます。申し訳ございません。

日常

 時々 わたしに感謝を述べてくれる人がいる
   ものすごく ありがたい
      何にもしてあげていないのに
   ありがとうと言ってくれる人がいることに  ありがとう といいたい

右の頬をたたかれたら 左の頬も差し出しなさい
という教えもある
無償の愛
何も求めない
という教えもある
何を言われても何をされても
 誤解であっても 言い訳せず
  ひたすら尽くす
という教えもある

私はできない

そんなに人間ができていない

  ダメな人間だから
ダメな親だったから
長男は逝ってしまったと どこかで思っている
 次男は
   結婚を望まず45歳は過ぎた

兄弟のような親子関係がいいのか悪いのか
   今も 惑いの最中

 こんなことを書くと
 もう一人息子さんがいていいですね
   とか
ご主人がいるだけいいよね
 といわれることもある

 どう 答えたらいいのか わからず
   沈黙しかないときもある

私は支援者ではない
  そもそも支援という言葉が嫌い
ケアという言葉も嫌い
 寄り添うなんて言葉はもっと嫌い

私は私の思いで 息子への懺悔の生き方として活動をしている

  その中で 誰かが何かを感じ
    その人自身が どのように生きるかを 選ぶのだと思う

 一応主婦なので
  家事もたくさんある

仏壇もある  お墓参りも・・・

私自身たまに行く歯科以外の病院に行かないので
  その分の時間はあるが・・・

洗濯と掃除が病的に好きなので
   一日中洗濯機が回っていることもある
   
煩悩が絶えない 
 しかし
息子の苦しみを思ったら
  頑張るしかない

  15年
     悟れないままです
プロフィール

藍たなけん

Author:藍たなけん
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仙台に住んでいます。
青森県津軽生まれ、B型 うお座 
主人と二男と3人暮らし
自死で長男を亡くしてます。
「悲しみは愛」「悲しみは愛しさと共に」「悲しみは私の体の一部」「悲しみを奪わないで」「悲しみを消そうとしないで」などを広めています。

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