
12月1日2日と研究集会があり参加してきました。
セッション5「当事者と協働した対策や研究の模索」
~自死遺族が対策や研究の望むこと~というタイトルで2人で発表
国も地方自治体も・民間支援団体にも同じことを感じるのですが
当事者目線に欠けるに尽きる
自分も含めて自分の家族も「自死」とは遠いところに住んでいる人という感覚がビンビンと感じる
当事者に成りえるかもしれないという想定は100パーセントない
自死は特別な人たちに起こる問題で
自分や自分の家族は絶対に 自死はないと思っている
あの自信は どこから来るのか‥不思議です
根拠のない 自信に満ちている
一部の人たちはきちんと向き合いながら 研究したり支援活動もしているが
多くの人たちは
自分とは関係のない世界の出来事として
根拠のない安心安全な立ち位置での研究や支援に携わっているんだと
心底感じた2日だった
この2日間だけではなく
行政の対策会議でも ずっと感じてきたこと
人のいのちに関する問題については
限りなく犠牲者をゼロとすることを目標に掲げるが
自死は
遺族以外の多くの人たちは ゼロにしようと思う気持ちが全くない
自死する人は
○○パーセント
日本人ならこのくらいの人たが自死するのは当然の事と 公言している
ものすごく違和感がある
社会的要因が人を追い込んで死に至らしめているんだ・・という事を
基本法や大綱に掲げながら
自死にかかわる人たちの多くは 自死する人が一定数いるのは 当然の事
人間だから・・・
自死するんだよ・・・という概念を深く持っている
これが 日本の自死の対策の大きな闇だと感じます
精神科医療が中心だとこうなるのだろう…と思う
ましてや
治せない、治す気のない、治らないと決めている精神医療の専門家たちが中心となっている弊害です
自死したい人等いるわけがない
産まれつき 死にたい人はいない
生まれつき自死したい人がいたら 人類は破滅する
生まれつき精神疾患者がいて
脳が異常の人が一定数いると考えていて
その脳の異常を治せないから
生まれつき脳の異常がある人が自死するのは
どうにもできないんだから
ゼロにするなんていう夢や理想すらもってゃいけないんだ‥という考えが
精神科医療の専門家たちの多くが持っているということが
18年の活動で
身に染みてわかった
死にたい精神疾患はない
2歳児から3歳児から 死にたい死にたいと思う人はいない
いろんな精神的病は
社会に影響を受けて発症したり 悪化していく
社会の中に 精神的病を発症する要因がある・・・
精神障害という障害も 社会に存在する
障がいそのものが社会にあり
その人が障害と感じなければ障がいは存在しない
人が障害と感じることが大きく存在したら
障がい者と言われるのだが
その人に障がいがあるのではない
という 社会福祉の理念が・・・ドイツ型精神医学の理念が理解されていない
学者にでさえも・・・
精神疾患者が自死するという概念から抜けられない人たち
一定数の自死は当然だという考えが
自死の対策の中心にいる人たちに多くあるとしたら
減るわけがない
戦争のない世界に!
殺人の無い社会に!
交通事故の無い社会に!
虐待の無い社会に!
核のない世界に! 癌死亡の無い社会に!
みんなが 寿命を全うできる社会に!
と 目標を掲げ それに向かって研究や活動や対策を講じている
理想や夢や目標は 実現可能かどうかではなく
大きく掲げるものだと思う
実現できるかどうかは別として
そこに向かって努力する姿勢が必要だと思うのだが
はじめから 無理だと決めつけて 自死のゼロは目指していない
としたら
進歩はない
大きな目標を掲げて 限りなく努力していくという姿勢がないと 低い目標すら一時的に達成したとしても継続はできない
自死する人が○○パーセントいるのは あたりまえだと認めた時点で
自死は減らない
○○パーセントは自死するんだという概念を持っている人たちに
聞きたい
○○パーセントの防ぐ用がない自死者に
自分も自分の家族も入るかもしれないという発想はあるのか・・・
自分も家族も自死しても
仕方がないという覚悟を持っているのか聞きたい
自分も家族も 全体にないと思っているならば 根拠を聞きたい
そこにあるのは
自死する人は
自分たちとは違う異常な人たちという心があるのだと感じるのは
私が自死遺族だからだろうか
まだまだ 根深く 自死への偏見があるのだと痛感した2日でした
6日にある
仙台市の会議でも 痛いほどそのことを感じる作業になることは予想できる
遺族として、自死者ゼロの社会が目標です
誰も追い込まれない社会
やさしい人たちがやさしいままで
笑顔で生きられる社会
になってほしいと願って活動をしています
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