このいら立ちは・・・

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人はそれぞれ
    遺族も同じ

17日の出来事
  シンポジウム準備中にけたたましい音量で流れていたうた
    自死というテーマのシンポジウム
      私にとって 息子の自死とガチで向き合う時間
        
   今月は息子の誕生日
       涙ぐんで臨んではいないけど
   楽しい時間ではない

      それが ずっと歌が流れていて・・・

  宇多田ヒカルのある歌

 朝ドラのテーマソングにもなった 自死で逝った母への歌

 なみだがながれた・・という人がいた
    人はそれぞれ
   歌に感動したという人がいた
      ひとはそれぞれ
涙もそれぞれ
      私はめったに涙が出ない  でなくなったというのが正しい

   うたを聞いて涙が出るって
         ・・・・・・・
ふ~~~ん
     息子がうたっていた歌に胸が締め付けられることはある
         息子が逝ってから はじめて聞いた歌に 感動しない
    なみだなんて流れない

   息子への涙は出るが  他の涙は出ない

 亡くなった人への涙はあふれるが
      生きている人には  涙が出ない

  冷たいのだろうか
       なみだの沸点が高くなった気がする
    
   
 

   9日 長野でやまなみの代表の前島さんが泣いた姿が今も心に残る
  それは
   皆さんとの出会いに感謝します、娘が亡くなったことで出会えた皆さんに
      この素晴らしい皆さんとの出会いは娘が生きていたら出会えなかった人たちです 
          ありがとうございます
              こんな内容だった気が・・・

   やさしく思いやりのある そして信仰心の厚い彼の流したなみだ

      どんなに素晴らしい人との出会いも
           子どもが死んだことでの出会いは悲しい縁

      雲の上のような人たちとも出会って親しくさせてもらっている
         社会活動もしている

 でも  生きてさえいたら

 誰にも知られることのない
     平凡な主婦でよかった

    子どもが生きていたら 私が死んでもよかった

       生き生きとルンルンと活動をしている遺族に私はなれない

     死んだ息子に ありがとうの花束って・・・

     生まれてきてくれたことはありがとうだけど
でもでも・・・      死なせた・・・責任は重たい

       楽しかった思い出が 全て悲しみ

       うまれてきてくれてありがとうと言えるなら
          泣きながら・・・だろうと思う

      出会わないほうが幸せな出会い

        亡くなった人からのご縁

 お互いに縁がなかったら 幸せなだった・・縁

    産んだから…私の子供だったから
      あの時・・・こう育てていたら
   転校もさせてなかったら
      青森にいたら
             仕事も警察官なんて勧めなかったら
      後悔ばかり

      健一大好きだよ・・という意味でお花は供える
        好物のものも供える

     年齢の差だろうか
  それとも 亡くした人の違いだろうか

     なみだ色の花束というが
         花束って ・・・ 私は息子に供えられない

      花は12年間 仏壇が見えなくなるほど飾っている
   花瓶が8個 小さな仏壇は隠れてしまう

 でも ありがとう は いえない 悲しすぎて

     いつも ごめんなさい と 思う
         ごめんなさいの活動をしている

    17日のシンポジウムで遺族が映像と共に流したうた

うたを流してプレゼンの準備中 彼女は腰を振りのりのりだった
           この人との出会いは6年くらいだろうか
       でもこの温度差はなんだろうか

    

     私は酒でも飲まないと   のりのりで歌は聴けない
  歌は聴いても歌っても
       自己嫌悪に陥る
  
 講演も同じ  いつも自己嫌悪感でいっぱいになる

 何を偉そうに語っているのだろう・・・と自分を責める

     このプレゼンは  遺族以外の人たちには受けがいいようだ
        きれいで感動的 いい人・・・愛溢れる人・・・
                    
  私は 寒々しく感じる
    根性が曲がっているのかもしれない

  自死は   きれいごとで済まされることではない

      藤圭子も精神薬の犠牲者だ
          この彼女の夫も震災と理不尽な上司の犠牲者だ
  
     そして 私もだが
         助けられなかった 家族として生きている

      私の心には前島さんの涙を流しての言葉がストンと落ちる
いら立ちを覚えない
    ものすごく深い 感謝と懺悔がそこに感じる

         いろんな人たちと出会い いろんな酷い目にも合ってきた

    でも イラっとすることは少ない

       なんだろう
   わたしが精神的にダメージを受ける人の一人・・・?

     何がだめなのかなぁ

      多分相手もそう思っているだろう

         誰でも 大丈夫な性格だけど

                                
      健一 カァチャン 引きずられているね


  さて今日は東京
   心の通じる弁護士や司法書士の皆さんと(遺族も)
       いらだたない議論をして
    また 心を原点に戻して 頑張ります
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自助グループの活動と支援活動

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「わかちあい」の時間
「わかちあうこと」の意味
自助グループができる「わかちあい」
当事者本人だけだから成立する「わかちあい」

 「わかちあい」のくくりをどのようにするのか・・
   体験した者同士のわかちあい
 「子供を亡くした母」のわかちあい
 「子供を亡くした父」のわかちあい
「子供を亡くした親」のわかちあい
「親を亡くした」わかちあい
「母を・・」「父を・・・」「兄弟姉妹を・・・」「従妹を・・」「恋人を・・」
 「友人を・・」「知人を・・・」
「家族を亡くした人・・」「友人知人・・・家族・・遺族なら誰でも・・何十年前でも・・・」
・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・ くくりはたくさんある

「自死で家族を亡くした」わかちあい
「自死で子供を亡くした」わかちあい
「自死で知人を・・・」「自死で兄弟姉妹を・・」
・・・・・・
  ・・・・・・・
 「自死で恋人を・・」「自死で同僚を・・」
  それぞれに自助グループとしてわかちあいの集いを開催したらいいと思う

自死というくくりだけで 友人・知人・恋人・別れた恋人・別れた夫や妻・・・家族・・
   という自助もありかもしれない
 私は「わかちあい」は自死遺族というくくりをしている
    「子供を亡くした親」というくくりにしている
 「家族を亡くした人たち」というくくりもある
しかし
 家族以外は入れない

家族以外に参加できる会もある・・・
 家族以外の人たちはその会に参加したらいいと思う

   参加したい人は
その会の特徴を尊重しながら 選べばいいだけ
「友人を自死で・・」という会には遺族は入れない・・当然である
その反対に「自死遺族だけ」という会には自死遺族以外には入れない
   それも当然である
認め合う事が大切

 ただ 「仕事」として「ボランティア」「支援者」としてその会に参加する事ができる会は
  自助グループではない
「支援する人」「支援される人」に分かれるのは自助グループではない
  相互扶助という考えが自助グループである

ピラミッド型ではなく
  ジャングルジムのような構図

 誰でもが支援者にもなり誰でもが支援をされる側にもなれる
   それが自助グループのわかちあい

   同じ・・・という事が大切
同じ苦しみ・同じ悲しみ・同じ悩み・・・・

  遺族ではなく  断酒会も同じ  依存症の会も同じ
      広い意味なら
        弁護士会も 司法書士会も 医師会も 議員の会も 県民の会も・・・
    自助グループである

  自死という 差別や偏見の目が強く注がれる遺族には
     遺族だけでの話合いの時間は大切です

 誰にでも 自死でしたと言える遺族なら
    自助グループに拘る必要もないと思う

  支援者と言われる人たちは
     なぜ「自死遺族」に拘って支援したいのだろうか
しかも
「悲しい」時間だけ
  「悲しみ」の以外の支援(法的支援とか)ができないから
    「悲しみ」なら資格もいらないし・・・
  ただ聞くだけでいいし
     ・・・
      「悲しい」話の時間だけでいいし・・・
  ひと月に1回 2時間程度でいいし・・・
     他の時間の接触は考えなくていいし・・

  そんなとこかな

   遺族同士はそうはいかない
  携帯電話番号を公開し 自宅の電話を公開し
  住所もメルアドも公開して いつでも連絡可能にしている
    夜中に連絡がある遺族は極々少数
       それもたまに・・・
でも
  連絡ができるという安心感は必要です
「わかちあう」事
  一人ではないと感じる事

支援団体に参加して 一人だけだとしたら
   孤立感が増す
自助グループは
  運営側が遺族だから 受付も遺族
  参加したら必ず遺族がいる・・・
一人ではない
 参加者が一人でも遺族二人で「わかちあい」ができる

   遺族のわかちあいに参加するだけが支援ではない

  会場の確保 会場の設置 準備
 会場の片付け 
広報等々 たくさんできる事がある

   下働きのような支援は満足感が得られないのだろうか

支援者は黒子の役目 目立つものではない
  雑用係が支援者だと思っている
  
そんな支援者は・・・なかなか・・・いない

 ほしい
   心から そんな支援が欲しい

  わかちあい以外の活動は  様々な人たちとの連携が必要ですから
    つながって欲しいのですが
      つながってくれない

   なんだろう・・・

 遺族が求める支援は拒否して
求めていない支援は積極的にかかわり 当事者の活動の妨げにもなっている

  どうしてでしょうか   

悲しみのケアと支援って・・・どんなこと?

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  悲しい人をケアする
 悲しい人を支援する

    正直私は好きではない
  長男が生きていたら  縁遠く生きていたはず

  サラリとかかわるのは 容易い
  しかし 本格的にケアや支援を考えたら 24時間365日様々な人たちとの連携を得て
      一人ひとり  ひとつひとつ
 取り組んでいかなければ
 ケアや支援という言葉に失礼になってしまう

    だから 支援していますと言われるのも自分で言うのも苦手
     居心地が悪い
  愛する人を・・・親を・・子供を・・亡くした人の悲しみのケアなど
    できるはずがないことを
    息子をなくして身をもって体験している
 誰にも私の悲しみのケアができないことを 私自身が知っている
  自分ですらどうにもできないのだから・・・
     愛する気持ちが消えたら 悲しみも消えるのだと思う

    しかし
 今でも  息子を深く愛している
  だから悲しみもまた深く今もある

   遺族の支援とは・・・

一人の遺族が求める事への手助け
   それは一人ひとり違う

 一人ひとり違う求めに対して
    全てに応えたいと思う
しかし不可能である

   だから 分担が必要

  様々な専門家が 様々なニーズに即座に応えられるように
   体制を整えて 連携を取り合う

 そんなふうな支援の構築カができている団体などどこにもない
   ましてや悲しみのケアなど
      誰がどのようにしているというのか

  以前にも書いたことがあるが
     40代50代になった人は
   祖父母4人・・・祖父母の兄弟姉妹・・
     かわいがってもらった親戚や近所の人
  誰かが亡くなっていると思う

 愛する・・・ことや 愛されたことの心を感じる人なら
    祖父母の死をさみしく 悲しく感じた一瞬はあったはず

    家族・親族の死を 悲しいと感じたことがない人たちが

  悲しみという現象を学んでいるとしか思えない
    
   机上の悲しみは所詮 疑似である

    私は物心ついたとき
      養母の父親が亡くなった・・・今でも鮮明に思い出す
  野焼きだった・・・
     土葬も様々にみた
 養母の姉の夫の死も・・・壮絶だったことを思いだす

   養母の祖父母 養父の祖父母
 実母の祖父母  実父の祖父母
  叔父・叔母  高校の教師の子供の死
      従妹の死
   隣のおばあちゃん おじいちゃん
  おじちゃん・おばちゃん
      本家の人達
    同級生 部活の仲間

   大勢の人たちとの死別を体験してきた

  父母6人の死も・・・

     さみしく 悲しく ・・・・

   悲しい時の人々の反応もたくさんたくさんみてきた

 特別に学ばなくても 体験として 心に刻まれている

  息子が亡くなった時
    グリーフケアの本を読んだ
  宗教の本も読んだ
     たくさん
   救いにはならない事をあらためて実感した

    読み漁った  図書館に通い詰めた
    だが
何の助けにもならないことを知った

   それでも 何かが救ってくれるかもしれないと・・・
     占いや精神科やカウンセリングも受けた

 結果 自分で抱えるしかない  と 気付いた

   同じ思いの人たちと わかちあいながらなら
       少しは楽に(?)生きられるかも・・と
   だから
     会の活動はわかちあいが中心
  でも
わかちあいだけではない事を求められたら
  それはつなげたいし 紹介もしたいし
   情報も提供したい
 だから
   様々な専門家との連携を作ってきた
 1年目より2年目…今11年目が過ぎ
   連携の輪は広がり
  すばらしい専門家たちとの交流がある

   毎年 広がる

   支援という活動をするなら
    いろんな人たちと 顔の見える関係が必要

   自分の満足のためではなく
   その人のために・・・と考えたら

    やるべきことが山のようにあり
  常にお願い・・感謝・・お願い・・感謝
     お願い・・の連続
      ありがとうございましたの連続
  
   そして 選ぶのはその人
  動くものその人
   元気になるのもその人
 
活動はほんの少しのお手伝い

   学ばなければ 悲しみすら理解できない人たちに
      悲しみの何がケアできるのだろう

    謙虚でない人たち
   繊細でない人たち
  感受性が薄い人たち

    多すぎる気がします

 そんな中で
自分をわきまえ 自分の立場を理解し
   ゆるやかなつながりの中でできる限りの事をしてくれる人たちの存在があります

  いろんな意味で  その人柄が見える気が・・・

  悲しみのケア  悲しみの支援
  って
  どんな事でしょうか

   

黙とう

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長男が亡くなった時
  のどからお腹まで一直線に 激痛が走り
  それがずっと続き、息ができないほどの息苦しさと痛み
     そして 突然意識不明になり ひっくり返る
   そんな状態を改善しないと葬儀もできないと思い
  精神科に行き、激痛はとめてもらった

   今でも 時々
  激痛ではないが 胸が痛み・・・息苦しく
胃もお腹も・・胸も痛む
   
それは 言葉を失うほどの憤りを感じたときに起きる

***********
     黙とうは嫌いです
シンポジュウムの時に  自死した人への黙とう・・
  会議が始まる前にいじめ自死で亡くなった子への黙とう
  議会の前・・とか
様々な場面で黙とうが行われる

   いら立ちを覚え 息苦しさを感じる
そんな時
  私は黙とうをしない

   法話の会で阿弥陀様に向かい  手を合わせてお念仏をするのは
          スッと心に収まる

   心のない黙とうは いら立ち 怒りすら感じる

  会議は会議をしたらいい
    議論は議論をしたらいい

 祈りの時間は祈りの時間で設けたらいい

    それなりの雰囲気で・・・場所で・・・

日本人は黙とうがお好きのよう

   会議室で ただ黙とう・・・なんて  安易で・・粗末にされている気がする
     大切な命なんです
 
  震災で亡くなった人たちの慰霊祭
  と言いながら
    遺族は後ろで 主賓は有識者たち
       祈りは少しで・・・あとは復興の話

  遺族は傷ついています

    会議もシンポジュウムも  祈りの場でありません

     祈って頂けるなら
祈りの時間と場を設定し 祈りをメインにしてほしい

 あれもこれも 混ぜなくていいのです

   形ばかりの黙とう

その後の会議も形ばかり

    それなら 黙とうよりも 会合の中身を充実させてください

  自死をなくするために 真剣に議論をしてくださる方がありがたいです

     憐れんでほしくない
        息子をあわれまないで欲しい

 哀れな人ではないのです
             
    上から目線の黙とうなんて・・・

      支援者の幸せの・・・満足を得るために 死んだのではありません

     亡き人に思いを馳せる事は
             思いやる気持ちが希薄な人たちには無理です

      見当違いの好意や善意は  当事者を傷つけます

    大多数の当事者は  「え!」と思っても
「ありがとうございます」と社交辞令でいうのかもしれない

   わたしは 社交辞令は得意だが
    遺族という問題では社交辞令は言わない
   

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シロホトトギス090928a-l

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