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田中幸子のひとりごと ~自死で子供を~

自死遺族として、子供を亡くした親としての思いを綴り、「悲しみは、愛しさとともに」~グリーフ.イズ・ラヴ~…息子への愛を伝えたい。

世間の目と自死遺族等への差別と偏見

R (4)
自死遺族支援が三次予防として対策が講じられているから
  「心のケア」
「悲しみの病理化」
 「複雑性悲嘆」
   「遅延性悲嘆」
挙句の果てには
「認知行動療法」で遺族のケアを!
  などを
     主張する支援者や団体が増えていく

   遺族の悲しみが病気で認知行動療法が必要である悲しみなら

    日本の国民全員が対象者となる
 支援者自身も遺族だから
  支援者も認知行動療法の対象である

   病気や事故などの遺族とは違い
  自死遺族だけに認知行動療法が必要というなら
 もはやそれは
  差別と偏見である

  突然の死・・お別れの言えなかった死
  介護や看病ができなかった死

というなら  自死以外にもある

震災 災害  交通事故  突然死
  不審死
     事故死

  離れて暮らす親の介護もせず 看病もしなかった
   その後の死も

戦争も・・海外での死
    遭難
たくさんある

自死に限らない

  それなのに  自死という遺族だけが
  複雑性悲嘆
というなら
  まさしく差別である

   自死遺族と他が違うのは

法律の中に存在する  自死という死への差別的取り扱いがあるという事

生命保険 ;健康保険
    労災申請
事故物件
 心理的瑕疵

   その根底にあるのは  好んで死んだという概念

   死にたい人が 勝手に自分を殺したんだという殺人者としての取り扱い
 
    そこが他の死と大きく違う

社会全般から見える自死という問題と
  
当事者になって見える  問題は
   想像を絶するほど大きくかけ離れている

「悲しみ」という以外に
   様々な問題がある

世間にいえない
  なぜ
      悪い事をした死という「恥」をぬぐい切れない
  日本には世間様への「恥」「顔向け」という
     周囲の思惑を気にする文化がある

そこに付け込んで
   自死者や遺族への
   蔑みや
  暴言  差別 偏見が 数多く存在する

 国の自死遺族の対策もそこに問題がある

悲しみも  自死だけが特別ではなく
   突然の死は 愛していたら  同じように悲しい

ただ違うのは
    差別や偏見が世間にあるという事  
法律にもあるという事

   だから自死遺族は語れず
  沈黙し 耐えて生きている人が多い

そして 自死という事を隠して生きるのは
    ストレスとなる

隠すことは 知られたくないという思いで  相当のストレスがかかる

   自死遺族支援をしてくれるなら

   隠さなくてもいいような社会にしてください

  法律の中に存在する差別や偏見をなくしてください

   まずはそこからです

 第三者調査委員会の設置をすると  地域からバッシングされ
    SNSで叩かれる
      遺族が活動をすると
    誹謗の嵐

ある会合で別な遺族の会の人には
  死にたくて死んだんでしょ!同じにしないでくださいと言われたこともある

 勇気をもって新聞に掲載してもらった遺族に対し
     誹謗中傷の手紙が届く事もある

   悲しみ以外の部分での 自死遺族への問題の是正こそ
  国がやる事

  どうして 支援者たちは悲しみ以外に興味がないのだろう


  
 
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「物語」という言葉 

kozakura021[1]

いろんな本を頂く
  読んでみる
 買う事もある
  とにかく読んでみる

自死に関する本がほとんど

その中で一番心が痛く苦しくなるのは
  臨床心理士や精神科医なども含めて
    研究目的で書かれた自死遺族の本

その人たちは 自死遺族の悲しみを「物語」と表現する
   ナラティブともいう
物語ってなに?
 私の悲しみは「物語」なんだ・・・と思うと
 軽んじられている気がして
    憤りを感じてしまう

「物語」になるんだ
息子の死と私の悲しみは・・・

若くして亡くなった遺族でもある研究者が
論文で「物語」と使っていたことに
  反論したことがある

彼はそれ以外では
 本当にやさしく 思いやりのある人だった

山の事故で亡くなったのは残念だった

  彼が生きていたら
  もう少し 自死遺族支援が良い方向になっていた気がする

   生きていてほしかった  

ある大学の教授によると
  正しい喪の作業がある・・・とか
   伝統的な喪の作業が目指すものは
   死者のいない現実に適応する事
   Lagacheのいう「死者を殺す事」であったと断言する教授

ここは日本 日本には  亡き人と共に暮らすという文化がある
  仏壇があり
     位牌があり  お茶やお水、お菓子や果物などの食べ物を供え
       頂き物や珍しいものは まずは仏壇に供え
        それから  生きている人が頂くという考え
  月命日 命日 春彼岸 秋彼岸 お盆  正月 
     毎日の祈り
           昔は仏壇に供えるためにも
      庭に季節の花を植えていた(青森の田舎ですが)

昔は子供が亡くなることが多く
   親たちは 地蔵さんを祀って 大切にしていた
    地蔵堂も多くある



  キリスト教については知らないが
     小さいころから そんな大人の作法を見ていた私には

  死者を殺すという考えが日本人の喪の作業と重なるとは思えない
       
研究者である私が自死遺族の喪の作業に介入し
  自死遺族の自死者との対話的関係を再構築することを目的とした
ナラティブアプローチを実践した。
・・・・・・・・・・・・
   ・・・・・・・・・・・
このことで自死遺族と自死者の伝統的な喪の作業(「死者を殺す」)とは
 違う新たな方向性を示すことができれば・・・・・自死遺族の喪の作業における支援のひとつの形を示すことができる

 などと書いてある本がある

自死遺族の方々から論文を本にしてほしいぜひとも読みたいという声をいただいたと冒頭に書いている
   
 この本を読んでみたいと思う自死遺族が居たら
 すごいなぁ

   私には無理
322ページにわたる この内容を
   動揺せずに読めるとしたら
      もう悲しみはそこには存在しない
   亡き人へも尊厳もない

   この本を書いた人は
    ある地域で 大学教授として
   自死遺族の会を主宰している

   そこの会に参加した自死遺族のわかちあいの内容がたくさん掲載されている

     いいのかな~~~

わかちあいの内容は 持ち出し禁止のはずなのになぁ~~

    
   

遺族として生きる

003_439[1]
岡先生の本から


遺族が生き方を作りあげていく



遺言が残された言葉であり、遺産が残された財産なら、遺族とは残された家族ということだ。遺産が自分で残った財産ではないように、遺族は、自分で残ったわけではない。つまり「遺族」は、その言葉の意味だけを探れば、どこにも主体性がない。遺族が何を望み、何を目指そうとしているのか、それは何もわからない。亡くなった人によって残されたという受け身の事実だけが表現されている。

 遺族が、遺族ではない人々によって使われる言葉だと私が言ったのは、そういう意味だ。つまり遺族という言葉は、遺族が何をする人なのか、どういう人なのかには、全く沈黙したままなのである。

 詩人は、詩を詠む人だろう。歌手とは、歌を唄う人である。走者とは走る人のことだ。そのように考えると、遺族は残された者であるだけで、そこから何をするのかわからない。いってみれば、遺族には性格がない。もちろん遺族の個々人には性格があるが、遺族と呼ばれる人々の全体に共通の性格があるかというと、それは考えられていない。

 逆に言えば、それは遺族の自助グループにとってはチャンスなのである。遺族の性格が白紙ならば、これから色をつけることができる。遺族とは何かを、自助グル-プは描くことができる。社会に向かって遺族が声をあげるとは、そういうことだと思う。

 「遺族として生きる」ことを選んだ人が、自助グループに集うのだと別のところで書いた。多くの人にとっては「遺族として生きる」のは、たとえば葬儀の前後の短い間だけで、もちろんその後も亡き人を思い出すことはあるが、それは親しい人たちと会話のなかか、それとも全くの私的な思いのなかで振り返るくらいだろう。

 だから「遺族として生きる」ことは、この社会、少なくとも現代の日本においては例外的な生き方といっていい。そういう意味で、遺族の自助グループに集う人々は少数者である。少数者であるかぎり、社会からの偏見や差別に備えなければならない。

 しかし「遺族として生きる」ことは、簡単なことではない。まず、例外的な生き方は、たいていそうであるが、周囲の人からは認められないことが多い。なぜいつまでも亡くなった人を思い続けるのかと責められることもあるだろう。

 「ひたすら努力して成功する」「辛いことをがまんして、やり遂げる」。そういった生き方は、世間でも認められる。映画でも、小説でも、テレビドラマでも、どこにでもあるストーリーだ。それに対して「ずっと亡くなった人を思い続ける」という生き方はどうかというと、これは何か暗い陰がある秘密めいた人物として、少し登場するだけではないだろうか。おそらく主人公になることも極めて稀だろう。

 言い換えれば、「ずっと亡くなった人を思い続ける」というとき、モデルがないのである。周りに、そういう生き方をしている人は、少なくともいまの日本では、非常に少ないはずである。だから、そういう生き方をしたいと思った遺族も、不安になる。「亡くなった子のことをいつまでも考えていて何もしていない。これでは良くないのではないか。」「私は、どこかおかしいのではないか。精神的に病んでいるのではないか。」そんなふうに自分の生き方に疑いを持ち始める。

 そんな疑念に合わせたように、「本来時間の経過とともに進行する悲嘆(喪)のプロセスがなんらかの要因によって滞ってしまった状態」を「複雑性悲嘆」と呼ぶ専門家が現れる。遺族もその声を聞くと、「ずっと亡くなった人を思い続ける」生き方が、病的なもののように思えてしまう。これが孤立した遺族の危ないところだ。

 前にも書いたように、遺族という言葉は、遺族ではない人たちのためにある。孤立した遺族は、遺族ではない人々によって「遺族はこうあるべきだ」という枠を一方的にはめられていく。「悲嘆回復プロセス論[iv]」は、その典型だろう。「死別はとても辛い。しかし、ある程度の時間がたてば、その辛さも克服し、前向きに考えなければいけない」という考え方を、遺族ではない人々が(善意から発したものかもしれないが)遺族に押しつけてくるのである。

 冒頭に述べたように、遺族が「残された家族」という意味ならば、そこには「残された」という受け身の状態だけで、本人の意思などはどこにも反映されていない。だからこそ、遺族ではない人が容易に「遺族はこうであるべき」という価値観や行動の基準を当てはめていく。

 孤立した遺族が、自助グループに集い、自分たちの生き方を作り上げていく必然性は、ここにある。






本気で自死を減らすなら「原因・動機別」の正しいデータが必要

image004[1]

以前にも書いているが

  警察庁発表の自死の「原因・動機別」のデータは正確ではない
   大きくかけ離れている
なぜなら
遺体発見時の直後 警察が遺族を犯人と想定しての事情聴取による内容での原因動機別ですから
 その後に実はパワハラが・・・いじめが・・というのは
  データには反映されていない

男女別・年齢別・職業別・無職の有無・場所や時間などは
  ある程度正確な数値に近い

といっても
 自死数そのものが 正確とは言えない

 救急搬送され24時間以内でないと自死ではない

   行方不明者をカウントしていない

  世界の基準は 行方不明から何年後は何パーセント
     その後何年後は何パーセントを自死とする事と定めている

   不審死なども
    何パーセントは自死とする事 と 定めている

しかし
日本はカウントしていない

また日本に住む外国籍の人もカウントされない

  日本国内での自死者数は
  極めて狭い範囲での数

   世界の基準に当てはめたら

  10万人を超える

 自死率  世界一  ダントツ一位  それが日本

   また 他種多様な団体・機関が連携して自死の対策を行うのが
先進国
  しかし  日本は  一つの団体が権力と金を牛耳り
     意見を言う団体を無視
足を引っ張り
       日本の近くの独裁国の将軍さまのように君臨している人がいる
 その団体に所属している人もその人に反対意見をいうと
   追い出される

 いま 残っている人たちを見ると

  イエスマンばかり

  その自殺ビジネスに群がる人たちも多い

その構図は
   日本の社会そのもの

 自死に追い込む社会そのもの

自死の予防団体が
     人を追い込むトップに位置している社会

 幸せな人たちはそのことに気がつかない

  善意の団体だと信じている

    自死の問題のど真ん中で
        活動をしていると
    よく見える

   自死遺族の当事者団体も 
        彼らには  邪魔な存在

   16年 ひどい事をたくさんされてきた

   全国自死遺族連絡会をつぶしたいのだろう

   私個人への攻撃もまた凄まじい

    その団体に所属している遺族からも
        攻撃されることも多い

   悲しい事です

     私の活動は  無報酬での活動

  純粋に自死をゼロにしたい
    自死の無い日本にしたい

自死遺族がさらに追い詰められることなく
  普通の死と同じように 
語り生きて欲しい

  幸せにならなくても 元気に生きて欲しい

  心の底からそう願い活動をしている

   ただ  力不足が否めなく
    全ての遺族の力にはなれない

  だからこそ  法律などの専門家との連携もしている

   普通の治療をしてくれる精神科医とも連携している

     活動に報酬は求めていない

 講演料ももちろん 活動の資金となる

     自死遺族からの連絡を日々受けていると

   自死を減らしたい ゼロにしたい と 強く思う

そのためにも
   原因動機別が 今のデータでは役に立たない

自死者数も世界の基準に従い
   世界から非難されようが  現実を受け止めての対策をしなければ
       自死は減らない
減ったような操作をされ
  国民が騙されて安心しているに過ぎない

    その陰で 苦しみ追い込まれて亡くなる人が増えていく

    自死遺族もまた 変わらず追い込まれ

表面だけの「心のケア」が
 目立つだけの社会になるだけ



鈍い人

ID00000402img1.jpg
 
グリーフケアを学ぶ人は
   悲しみという感情が鈍い気がする

  今を生きている人は 全員遺族
  遺族でない人はいない

私は 小さいころから 祖父母 近所のおばあちゃんおじいちゃん
   叔父・叔母
      親戚
  同級生など
        20歳過ぎたころには ずいぶん知っている人の死を体験した
     祖父母の時は
       幼いなりに悲しかった
  人間と一緒にする気はないが
   ペットもいろいろ亡くした

 それなりに 悲しかった

  特別に悲しみについて 学ばなくても

 死別も含めて   様々な別れも体験してきた

   悲嘆について 学ぶ必要はなく

     大人になれば 悲しみの体験は様々にある

   
グリーフケアを学ぶ人たちは
    一度も悲しい体験をしたことがないのだろうか

  悲しいという感情を抱いたことがないのだろうか

    祖父母が亡くなっても
 悲しい気持ちにならなかったという人達なのだろうか

    知り合いが亡くなっても  悲しい気持ちがわかなかったのだろうか

   悲しい気持ちに鈍感な人たちが
  悲嘆について学んだだけで

  悲しい人をケアできるわけがない

        悲しい気持ちに 細かな配慮ができる繊細な人たちは

        悲嘆について  わざわざ 学ばなくても
 生きている時間の中で
  たくさんの 別れの中から  たくさんの種類の悲しみを感じて
        生きている

   それだけで 十分 
   いろんな意味での悲しみを体験している

  悲しみを感じる感性を持っている人は
      勉強して悲しみを感じるものではない事を知っている

    私もたくさん体験してきたからこそ
  息子の自死という究極の悲しみを

    悲しみを学ばないとわからない感性の鈍い人に
        触れてほしくない
       
    私と息子の間にある私の悲しみは  大切なもの
 言葉にできないほどの
悲しみを   グリーフケアなどという手法で語ってほしくない

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プロフィール

藍たなけん

Author:藍たなけん
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仙台に住んでいます。
青森県津軽生まれ、B型 うお座 
主人と二男と3人暮らし
自死で長男を亡くしてます。
「悲しみは愛」「悲しみは愛しさと共に」「悲しみは私の体の一部」「悲しみを奪わないで」「悲しみを消そうとしないで」などを広めています。

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