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人間の悲しみ

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今から新潟市に行く
 「逢うる」が主催のイベントに参加
    月曜日の明日は新潟から東京へ
   取材を受ける

 金曜日の茶話会で質問を受けた
    グリーフケアという意味について

故平山先生の著書にはグリーフとは「悲しい時に起こる症状のこと」とある
   現在信じられている「悲しみ」ではない
「悲しみからの回復」がグリーフケアではない
 「悲しい時に起こる症状」
    泣きわめいたり 怒ったり  イラついたり
     八つ当たりしてみたり ご飯が作れなかったり
お風呂に入れなかったり
   人と会うのが怖かったリ  話したくなかったり 無性に話したくなったり
   様々な症状が出てくる
  眠れなかったり  突然涙があふれたり
     
根底にある悲しみをケアするのがグリーフケアではなかったはず
  どこかで 悲しみのケアに入れ替わってしまった

   泣き叫んだりすることは  少くなくなっていく
    だからといって 悲しみが少なくなったわけではない

    平山先生はそのことを理解して グリーフケアを唱えていた

  しかし 最近は 悲しみをケアするというグリーフケアになってしまった

 それは きちんと学んでいない人たち・・
いや学んでいながらも 金儲けができる悲しみのケアという看板を掲げたのだと思う

   卑しい人たち  傲慢な人たちである

  平山先生は謙虚な方でした

    本当に よくしてくださいました

    パフォーマンスだけの支援は支援ではない
  ケアするという事は大変なこと

   遺族はほとんど自分の力で耐え忍び 道を光を探している
       会の開催なんて ほんのいちぶ
  1か月1回 2時間程度で どんなことができるというのか・・・
      気付けるきっかけになれれば いいと思うだけ
無理に立たせて 歩かせることはできない
   一人で立って 歩くだけ
 一緒に歩くことはできる
   先に歩いて 歩きやすいように 石ころをどかすことはできる
      傍を歩くことはできる
  でも 手を引いて ずっといつもいつも歩くことはできない

 その人がその人の力で歩くだけ
       悲しみもまたその人のもの
その人の悲しみはその人だけのもの
    かなしいという感情は  自分と亡き人の間に生ずるもの
        自分以外の人がその間にはいることはできない
 
  岡先生が講演でこんなことを言っていた

 他者から見える悲しみとは

水槽の中で泥が渦巻いている
  波立っている
 泥が悲しみだとしたら
    人は水槽をみて 悲しみがいっぱいと思う
少しずつ時間が過ぎて
  泥が沈殿していくと 水槽の水が澄んでくる
     きれいになった水槽をみて 悲しみが消えたと思う
しかしその水槽の底には 泥がたまったまんまである

 時々  揺さぶられ  泥がまた水槽を濁す
       そしてまた沈んでいく

    きれいになった水槽を見て人々は すっかり悲しみが消えたと思う

   そんなことではないでしょうか・・と話してくれた

 なるほど!と思う

    症状は穏やかになっていく
       グラグラしない
     でも悲しみという泥は  ずっと水槽という心底にある

時々 地雷を踏み  揺れ動く
   泥が舞い上がる   人々はまた悲しんでいると思う
      いや突然沸き上がったのではなく
いつもいつも 悲しみと一緒にいるんですよ・・・
          それが
愛する人との死別の悲しみ
   誰にも 取り除けない
 取り除かなくていい
    大切な人との間にある愛だから
 私の愛を取り除こうなんて やめてください

   今のグリーフケアは
  愛を取り除こうとしているとしか思えない

 ご自分の大切な人への愛を取り除けますか?

     人が人を愛する気持ちを 愛し続ける心を否定する行為が今のグリーフケアです

  深く考えてみてほしい
 浅すぎます
      人の悲しみなんて 深いもの

   人間が考えた言葉でいい尽くせないほど深いものです
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コメント

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わからなことや知らないことが多い。
情報化社会の中で、
パァーっと一斉に同じことが流される。
だからとそれが必ずしも正解でないはず。

遺族になって数年。
違和感感じるのは、
悲しむことはいけないのか?ということ。

人間には感情がある。
いつもいつも笑顔でいられないし、
遺族だからといつもいつも悲しそうにしていることはできない。

笑顔の時もあれば、
悲しみに沈むこともある。

遺族だからでないと思うのだけど・・・・

鬱になった経験あります、
と言うと、
精神障害者支援をしているボランティアさんですら、
疑問に感じる言動をする。

自分たちは理解し、寄り添ってます!
なのだろうけど、
的外れに感じることがある。

それは鬱になった経験から得たものなので、
鬱になったのも悪いことばかりでないと、
回復した今は思える。

当事者でないと感じることすらできないものはある。

いくら頭で学んでも、その部分は絶対に無理なこと。

支援者を名乗るのならば、
自分には無理な部分もあることをおいておかないといけないと思う。

支援者だからできることもあるのだから、
その部分を大事にして欲しいと思う。

できない部分はできないのだと知ることから、
支援者は始まると思う。